とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 美帆と別れてから数日。文也は幾分か冷静さを取り戻した。いや、冷静とは言い難かったかもしれない。

 後から思い返すと納得できないことばかりで電話をかけたりメッセージを送ってみたりしたが、美帆から返事はこない。

 あれがお別れ宣言だったのなら別れてから何度も連絡する自分はただのしつこい元カレだ。余計に印象が悪くなるだけだろう。

 だが、納得出来なかった。結婚できないことは仕方ないにしても、そこまで美帆に失望されるような覚えはない。いや、気が付かない間に何かしていたのだろうか。

 結局週明けまで美帆から返事がなかったため、最終手段────ついでを装って会社まで会いに行くことにした。

 会社に押しかけるなんて正直やりすぎな気もするが、二人の大事なことだ。このままにはしておけなかった。

 今日は秘書課で仕事なのか、行ってみると受付に美帆の姿はなかった。

「津川さん、こんにちは」

 美帆の後輩の原田、だっただろうか。一人で受付にいた。

「今日は美帆さんは秘書課ですけど────お仕事ですか?」

「いや……近くに来たから寄っただけやねん」

「そうですか……残念ですね」

 原田は何も聞かされていないのだろうか。何も知らない様子だ。美帆はまだ誰にも言っていないのかもしれない。

 このまま待っていても仕方ないので、会社に戻ることにした。仕事終わりに待ち伏せするしかない。本当にストーカーみたいだが、こうでもしないと美帆とは話が出来なさそうだ。

 美帆はなぜ気が変わったのだろう。嫌がっているふうではなかったのに、それは自分が都合よく解釈していただけなのだろうか。

 それとも結婚が不安になったのだろうか。マリッジブルーという言葉もあるぐらいだし、普通のサラリーマンではない自分の将来に不安を感じていたのかもしれない────などとあれこれ考えてみたが、結局美帆と話さなければ分からない。



 文也は仕事を早めに切り上げ藤宮コーポレーションへ向かった。いつも通りなら、会社のエントランスから出てくるはずだ。定時で終わるかも分からないが、とにかく待った。

 一時間と少し経った頃、美帆らしき人物が姿を表した。グレーのスーツを着ていかにもらしい秘書の格好。だが、その表情はなんだか暗い。文也はまっすぐ美帆のところへ向かった。

 美帆の前まで行くと、美帆は気不味そうに足を止めた。

「……ごめん。返事が返ってこんかったから」

 美帆は視線も合わさない。その表情はもう終わったことだと言わんばかりだ。

「この間はごめん。美帆の気持ちも考えんで……。だからちゃんと話したいねん。俺はずっと美帆とおりたいし、そのために必要なんやったら直すところは直す。だから」

「私はもう話すことはありません」

 なんとかしたいと思っていた気持ちがまた揺らぐ。忌々しそうに美帆の瞳が歪んだ。

「直すとか、直さないとかそういう問題じゃないんです。私は結婚したくないんです。一人の時間だってないし、自分以外の人間のことまでやらないといけない。そういうの疲れるんです」

「それは……俺も努力するつもりやから。美帆だけに任せようとか考えてないし二人でやっていったらいいやんか」

「二人でって……もう終わったことです。……津川さんは別の相手でも探せばいいじゃないですか。モテるんですから」

 本当に目の前の人物は美帆だろうか。毒舌は最初の頃のようだが、全く違う。目が冷たいのだ。

 あまりの変貌ぶりに言葉が出ない。文也は信じられない気持ちだった。

 ────美帆はあれで別れたつもりやったんか? そんなに失望されるようなことしたか?

 美帆はこんな女性ではなかった。もっと優しくて思いやりがあった。

 悪い夢でも見ているのだろうか。だとしたら、いつからが夢だったのだろう。美帆と会った時からだろうか。

「……こういうことは今後やめてください。取引先なんですから」

 そういうと、美帆はヒールのつま先の向きを変えた。去ろうとする美帆に、文也は言った。

「俺のこと……好きやったやろ……?」

「そういう時も、ありました」

 再び足を進める美帆を引き止めることもできなかった。何を言えばいいか分からなかった。

 《《気持ちがない相手》》にはどんな言葉も届かない。そんな相手に叫んでもただ滑稽なだけだ。

 驚きの後しばらくして悲しみが襲った。心の中がぽっかりと空いたような喪失感だった。それは父親に裏切られた時でさえ感じなかった感情だった。
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