とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 ────美帆。

 溜息が一つ零れる。ぼんやりと見つめるスケジュール表には今日の予定がずらりと並ぶ。だが、内容が頭に入ってこない。

 ────美帆?

 朝ご飯を抜いたからだろうか。何だか力も出ないし、貧血のときのように体が重い。このままどこかへ倒れ込みたい気分だった。

「美帆! ちょっと、大丈夫!?」

 美帆は肩を軽く揺さぶられた。首がガクンと動いて、ようやく意識が目覚める。周囲には美帆を除く四人の受付嬢。そうだった、今は朝のミーティングの途中だったと気が付く。

「どうしたの。具合でも悪いの?」

「あ……ごめんごめん。なんでもない。えっと、どこまで話したっけ……」

 ────仕事中なのに何やってんの。しっかりしないと。

 なんて自分を叱咤してみたものの、相変わらず気が抜けていた。

 文也と別れてからずっとこの調子だ。三十路にもなって恋愛ごときで乱されていたら敵わない。いい加減元の自分に戻らなくては。

 と思うものの、現実はうまくいかない。

 文也からの連絡はぴたりと途絶えた。会社の前で会ってから、電話もメッセージも送られて来なくなった。

 当然かもしれない。あんな酷い言葉でフッたのだから。きっと文也は訳が分からなかっただろう。

 あれから何度も思い返した。あの時の選択は間違っていたのだろうか。文也を捨ててよかったのかと。いなくなった寂しさを感じると途端に決心が揺らいだ。まだ消してもいない番号に連絡してしまいそうになる。

 だが、これは文也のためだ。大事な相手であっても何もかも犠牲にしてしまうのは間違っている。




 ミーティングを終えた後、沙織に話しかけられた。

「美帆、どうしたの? また津川さんと何かあった?」

「……別れたの」

「え?」

 それだけ発すると、沙織は地蔵のように固まった。口をぽかんと開け、しばらく驚いていた。

 沙織は応援してくれていた。自分と文也の間にあったことの大体は知っている。まさか別れるなんて思ってもみなかったに違いない。ただでさえ結婚の相談をした後だった。

「……それ、本当なの?」

「こんな面白くない冗談つかないよ」

「なんで……?」

「……ちょっと、色々あって」

 流石にあの事は言えない。沙織の反応は目に見えている。

「だって、あんなに仲良かったじゃない。結婚すると思ってたのに」

「まあ、人生色々あるよ。そういう時もあるって!」

 から元気で無理やり口角を上げてみたもの虚しさが増えただけだ。

 受付嬢はある意味楽だ。喋ることは大体決まっているし、何年もやっていればセリフでも喋るみたいにすらすら言葉が出てくる。笑顔も研修で習った通り。決まりきった黄金比の表情はよく知った人物でなければ本心を悟らせないだろう。

「馬鹿。無理してるの見え見えよ。そっか……うん」

「ごめんね……。色々相談に乗ってもらったのに」

「まあ、それは仕方ないよ。どうなるかなんて誰にも分からないし。よし、なら今日は飲みに行こ! パーっとやってさ、美味しいものでも食べてリフレッシュしたら元気になるって!」

 多分酒を飲んだり美味しいものを食べたぐらいではこの傷は癒えないだろう。それは沙織も分かっているはずだ。

 だが、それ以外に掛ける言葉がなかったのかもしれない。誰だって失恋は痛い。立ち上がるまでに時間がかかる。

 いつかはこの痛みも消える。だが、そう思うと切なかった。その頃には文也にも新しい相手ができているだろうか。文也は切り替えが早そうだし、時間が経てば忘れていくだろう。

 その時、自分は文也のことを忘れているだろうか。そんな簡単な感情ではなかった。
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