とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 杉野との食事は特に問題なく終わった。本当はあちこち連れていくつもりだったが、カードが「滝川」しか残されていない以上、初めから派手に動くことができなかった。

 どうやらいきなり杉野を落とすなどという大胆な行動は取らないほうがいいかもしれない。割と長期戦になるが、覚悟の上だ。

 週初め、文也はもう一度杉野に声を掛けた。食事の礼を言うためだが、接触回数が多ければ多いほど打ち解けやすい。仲良くなっておくに越したことはないと思った。

「こちらこそありがとうございます。私もすごく楽しかったです」

 杉野はまたキリッとした姿に戻ってしまった。これがいつもの杉野だが、土曜の彼女はもっと自然で明るかった。

 だが、「かしこまらんほうが絶対ええで」なんて言おうものならまた眉を釣り上げて怒ること間違いない。文也は黙っておくことにした。

 杉野の好みはなんとなく把握できた。失敗さえしなければ杉野と仲良くなることはそう難しいものではないかもしれない。

 改めて見ると、杉野は魅力的だった。

 仕事中は明らかなキャリアウーマンだが、受付嬢をしているだけあって笑顔が魅力的だ。いつぞやのぎこちない能面みたいなスマイルではない。丁寧に仕事しているし、何より楽しそうだった。

 ────こんなん、普通の真面目な取引先の社長で近付いた方が百倍よかったわ。何やってんねん、俺……。

 もう少し下調べをしておくべきだった。感情で走るからこんなことになるのだ。

 とにかく今は「滝川」として杉野と仲良くなるしかない。



 文也がゴミ箱の入れ替えをしていると、奥のエレベーターから人が出てきた。その人物は文也もよく知っている人物だった。

 藤宮コーポレーション代表取締役・藤宮聖(ふじみやひじり)と、その秘書の青葉俊介(あおばしゅんすけ)。文也の計画のキーマンだ。

 二人は受付まで行くと、杉野に話し掛けた。

「お疲れ様です、社長。青葉さん」

「お疲れ様です。お昼の一時半から大会議室を予約しておいてもらえますか。取引先の方が十名ほどいらっしゃるので、その用意もお願いします」

「承知致しました。お二人はこれから外出ですか?」

「はい。神奈川支社にちょっと。お土産でも買ってきましょうか?」

 青葉が言うと、杉野はおかしそうにくすくすと笑った。

「ふふ、青葉さんもそんな冗談言うようになったんですね

「新婚さんだから、ちょっと浮かれてるのよ」

 三人は楽しそうに談笑している。ぱっと見とても仲が良さそうだ。杉野は受付嬢だが、二人と関わる機会も多い。当然のことかもしれない。

「お気をつけて」

 杉野は一礼して二人を見送った。

 やはり、杉野はこの計画に必要だ。正直簡単に口を割るような女性には見えないが、現状それ以外に方法はない。

 文也自身が藤宮に潜入することもできた。藤宮は中途採用を年に何度かやっている。しかし、津川商事の子息であることが知られている以上その手段は取れない。直接乗り込むのはあまりにも危険だ。
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