とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
津川はなんの迷いもなくスタスタとエレベーターに向かって歩いて行く。案内などする必要がないのでは? と思うほどに。
「一体どこへ行くんですか。広報課はこっちじゃありませんよ」
「まあまあ。いいスポットがあるねん」
そんなセリフも津川から聞くと寒気がする。
津川が連れて来たのは中階にある展望フロアだった。普段は社員が休憩する場所だが、今は人が少ない。いても喫煙スペースの中に二、三人いるぐらいだ。
なぜ津川がこんな場所を知っているのだろう。坂口と来たことがあるのだろうか。
「ここに何があるんです?」
「杉野さん何飲む? 奢るわ」
「結構です。お客様からそんな────」
「もう財布出してるから、早よして」
────なによ、もう!
美帆は自販機の前に行き、飲み物を眺めた。よくある百円ほどのカップタイプの自販機スタンドだ。美帆はレモンティーを押した。
数十秒待つと飲み物が出て来た。津川はそれを取り出して美穂に渡した。
「はい、百万円」
「はい?」
「……やっぱ東京で通じんってのはほんまやったんか」
「なんのことです?」
「ああ、なんでもない。関西人の冗談」
津川は続けて自分の分のコーヒーを買った。
百円だろうが百万円だろうが、津川に奢られるとなんだか癪だ。そのうち借りを返せとか言ってくるのではないだろうか。
「それで、杉野サンはなんで元気ないん?」
「別にそんなことありません。雨のせいです」
「嘘つけ。目の下にクマつくっとるくせに」
目を釣り上げると津川は引っかかったな、と言わんばかりに笑った。
美帆は嫌な男ね、とまた腹が立った。少しは認めようとしているのにこの男はいつもこうだ。からかっているのか本気なのか分からない。ただ遊ばれているだけのように感じる。
「津川さんが嫌なので受付嬢を辞めようか考えてるんです」
ふん、と鼻を鳴らす。ちょっとした反抗だ。
だが意外にも津川は面食らった表情をしてアタフタし始めた。まさか本気だと思われただろうか。もちろんそんなつもりは毛頭ないが、本気にされるとは思わず、美帆も慌てて弁解した。
「じょ、冗談です。そんなつもりはありません」
「……俺が嫌なんやったらもう来おへんよ」
意外だ。こんなに真面目に返されるとは思ってもみなかった。
関西人ならもっと「ジョーダンかいっ!」とか言ってノリツッコミするものではないのだろうか。なにをそんなにショボショボしているのだろう。
「違います。津川さんのせいじゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「……受付嬢だって色々悩むことがあるんです」
津川に言っても分からないだろう。自分のことを、「男漁り」なんて言っていたぐらいだし、受付嬢に対するイメージなんてそんなものなのだ。
一所懸命頑張ったって陰口は尽きないし、変な噂流されて誤解されたり────一体自分はなんのために仕事をしているのかと思う時がある。
給料はいいし待遇も問題ない。人間関係だって割と円滑な方だ。こんな文句を言うなんて、贅沢だと思われるかもしれない。
「仕事の悩み?」
「まあ、そんなところです」
ハッキリとは言いたくなくて誤魔化すようにレモンティーを口にする。
「別にいいんちゃう。杉野サンがそうしたいんやったら。人生長いんやし、やりたいことやったらええと思うで」
こんな呑気な答えなのは津川が御曹司だからだろうか。なんの苦労もせずにするする人生を生きて来たからか。
だが、不思議と腹は立たなかった。少なくとも否定はされなかった。
こんなことを友達や親に言ったら「大企業の受付嬢なんてそうそうなれるもんじゃないんだから我慢したら」とか言うに決まっている。だから今まで人に言わなかったのだ。
けれど津川は否定しなかった。
「でも俺は杉野サンの接客好きやから、辞めたら嫌やけど」
「どっちなんですか、もう」
「人間その時しかでけへんことあるし、無理にしがみつく必要はないんちゃう? 俺も親父のやり方が嫌で飛び出したクチやけど、別に後悔はしてへん。自分が納得してたらええねん」
「え? 津川さんって津川商事の子会社なんじゃ……」
そう指摘すると、津川は慌てたように言った。
「あ、いや……前は、ってことな。今はちゃんとしてんで」
津川にも色々あったのだろうか。想像出来ないが、あんな大きな会社の息子だ。沙織はドラマの見過ぎだと言っていたが、複雑な事情があるのだろう。
藤宮の上層部も親娘でトラブルがあったし、どこもそういうものなのかもしれない。
「……受付嬢ってみんなが思うほど華やかな仕事じゃないんです。むしろ地味で、小さなことの繰り返しっていうか……だから、本当に役に立ってるのか分からなくなる時がたまにあるんです」
「杉野サンはちゃんと仕事してるやろ。地味でもなんでも、みんなそれを分かってるから頼ってるんちゃうの」
「男漁りって言ったじゃないですか」
じろりと睨むと、津川は申し訳なさそうに項垂れた。
「……ごめん。あの時はその……そんなつもりちゃうかってん」
「別にもういいです。私の評価なんてそんなものなんですから」
「ちゃうって。俺は────君のこと知らへんかったからああ言ってしもたけど、今は違うと思ってる。ほんまやって」
────じゃあなんであの時はあんなこと言ったんですか?
尋ねたい気持ちはあったが、津川があまりにも必死なのでなんとなく聞く気が失せてしまった。
どうして津川はこんなに必死に弁解しているのだろう。自分のことが嫌いだからあんな言い方をしたのではないのだろうか。
今の津川はあの時みたいに馬鹿にした感じではない。本当の心からそう思っていると感じた。
「色々言う奴もおると思うけど、杉野サンが真面目にやってたら絶対見てくれてる奴がおる。だからそんな自信なくさんでもええ」
「……どうも、ありがとうございます」
「ええことあるって、そのうち」
「……今ので一気に台無しになりました」
「なんでやねん。俺一所懸命慰めてるやろ」
「だからちょっとだけ、元気が出ました」
津川は相変わらず鬱陶しい男だが、前ほど嫌いではなくなった。
仕事のことも、少しだけ前向きになれた。ナイーブな時期だったのだろうか。
色々なことが重なって自信を無くしていたが、津川の不器用な慰め方で少しだけ自信を取り戻せた気がする。
本当に、ほんの少しだけだけれども。
「一体どこへ行くんですか。広報課はこっちじゃありませんよ」
「まあまあ。いいスポットがあるねん」
そんなセリフも津川から聞くと寒気がする。
津川が連れて来たのは中階にある展望フロアだった。普段は社員が休憩する場所だが、今は人が少ない。いても喫煙スペースの中に二、三人いるぐらいだ。
なぜ津川がこんな場所を知っているのだろう。坂口と来たことがあるのだろうか。
「ここに何があるんです?」
「杉野さん何飲む? 奢るわ」
「結構です。お客様からそんな────」
「もう財布出してるから、早よして」
────なによ、もう!
美帆は自販機の前に行き、飲み物を眺めた。よくある百円ほどのカップタイプの自販機スタンドだ。美帆はレモンティーを押した。
数十秒待つと飲み物が出て来た。津川はそれを取り出して美穂に渡した。
「はい、百万円」
「はい?」
「……やっぱ東京で通じんってのはほんまやったんか」
「なんのことです?」
「ああ、なんでもない。関西人の冗談」
津川は続けて自分の分のコーヒーを買った。
百円だろうが百万円だろうが、津川に奢られるとなんだか癪だ。そのうち借りを返せとか言ってくるのではないだろうか。
「それで、杉野サンはなんで元気ないん?」
「別にそんなことありません。雨のせいです」
「嘘つけ。目の下にクマつくっとるくせに」
目を釣り上げると津川は引っかかったな、と言わんばかりに笑った。
美帆は嫌な男ね、とまた腹が立った。少しは認めようとしているのにこの男はいつもこうだ。からかっているのか本気なのか分からない。ただ遊ばれているだけのように感じる。
「津川さんが嫌なので受付嬢を辞めようか考えてるんです」
ふん、と鼻を鳴らす。ちょっとした反抗だ。
だが意外にも津川は面食らった表情をしてアタフタし始めた。まさか本気だと思われただろうか。もちろんそんなつもりは毛頭ないが、本気にされるとは思わず、美帆も慌てて弁解した。
「じょ、冗談です。そんなつもりはありません」
「……俺が嫌なんやったらもう来おへんよ」
意外だ。こんなに真面目に返されるとは思ってもみなかった。
関西人ならもっと「ジョーダンかいっ!」とか言ってノリツッコミするものではないのだろうか。なにをそんなにショボショボしているのだろう。
「違います。津川さんのせいじゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「……受付嬢だって色々悩むことがあるんです」
津川に言っても分からないだろう。自分のことを、「男漁り」なんて言っていたぐらいだし、受付嬢に対するイメージなんてそんなものなのだ。
一所懸命頑張ったって陰口は尽きないし、変な噂流されて誤解されたり────一体自分はなんのために仕事をしているのかと思う時がある。
給料はいいし待遇も問題ない。人間関係だって割と円滑な方だ。こんな文句を言うなんて、贅沢だと思われるかもしれない。
「仕事の悩み?」
「まあ、そんなところです」
ハッキリとは言いたくなくて誤魔化すようにレモンティーを口にする。
「別にいいんちゃう。杉野サンがそうしたいんやったら。人生長いんやし、やりたいことやったらええと思うで」
こんな呑気な答えなのは津川が御曹司だからだろうか。なんの苦労もせずにするする人生を生きて来たからか。
だが、不思議と腹は立たなかった。少なくとも否定はされなかった。
こんなことを友達や親に言ったら「大企業の受付嬢なんてそうそうなれるもんじゃないんだから我慢したら」とか言うに決まっている。だから今まで人に言わなかったのだ。
けれど津川は否定しなかった。
「でも俺は杉野サンの接客好きやから、辞めたら嫌やけど」
「どっちなんですか、もう」
「人間その時しかでけへんことあるし、無理にしがみつく必要はないんちゃう? 俺も親父のやり方が嫌で飛び出したクチやけど、別に後悔はしてへん。自分が納得してたらええねん」
「え? 津川さんって津川商事の子会社なんじゃ……」
そう指摘すると、津川は慌てたように言った。
「あ、いや……前は、ってことな。今はちゃんとしてんで」
津川にも色々あったのだろうか。想像出来ないが、あんな大きな会社の息子だ。沙織はドラマの見過ぎだと言っていたが、複雑な事情があるのだろう。
藤宮の上層部も親娘でトラブルがあったし、どこもそういうものなのかもしれない。
「……受付嬢ってみんなが思うほど華やかな仕事じゃないんです。むしろ地味で、小さなことの繰り返しっていうか……だから、本当に役に立ってるのか分からなくなる時がたまにあるんです」
「杉野サンはちゃんと仕事してるやろ。地味でもなんでも、みんなそれを分かってるから頼ってるんちゃうの」
「男漁りって言ったじゃないですか」
じろりと睨むと、津川は申し訳なさそうに項垂れた。
「……ごめん。あの時はその……そんなつもりちゃうかってん」
「別にもういいです。私の評価なんてそんなものなんですから」
「ちゃうって。俺は────君のこと知らへんかったからああ言ってしもたけど、今は違うと思ってる。ほんまやって」
────じゃあなんであの時はあんなこと言ったんですか?
尋ねたい気持ちはあったが、津川があまりにも必死なのでなんとなく聞く気が失せてしまった。
どうして津川はこんなに必死に弁解しているのだろう。自分のことが嫌いだからあんな言い方をしたのではないのだろうか。
今の津川はあの時みたいに馬鹿にした感じではない。本当の心からそう思っていると感じた。
「色々言う奴もおると思うけど、杉野サンが真面目にやってたら絶対見てくれてる奴がおる。だからそんな自信なくさんでもええ」
「……どうも、ありがとうございます」
「ええことあるって、そのうち」
「……今ので一気に台無しになりました」
「なんでやねん。俺一所懸命慰めてるやろ」
「だからちょっとだけ、元気が出ました」
津川は相変わらず鬱陶しい男だが、前ほど嫌いではなくなった。
仕事のことも、少しだけ前向きになれた。ナイーブな時期だったのだろうか。
色々なことが重なって自信を無くしていたが、津川の不器用な慰め方で少しだけ自信を取り戻せた気がする。
本当に、ほんの少しだけだけれども。