とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「またあなたは……」
さあこれから休憩に行こうと立ち上がった時だった。
また突然津川が訪ねて来て、美帆は休憩に行くタイミングを見失った。
「たまたまですよ。近くに寄ったので」
津川はニコニコしている。確信犯だ。
「随分都合良くうちの会社が近くにあるんですね。きっとあなたの目的地から半径百メートル以内にはいつもうちの会社があるんでしょう」
「どこか行くんですか?」
「ええ、これから休憩しようと思っていたところです。なので残念ですがここで失礼いたします」
美帆はカウンターから出て足速に社員食堂へ向かった。だがすぐに後ろから津川がやって来る。美帆の隣にはあっという間に津川が並んだ。
「ちょっと、どうして私の後をついて来るんですか」
「俺も腹減ったから飯にするわ」
「私は社員食堂に行くんです」
「ここの社員食堂、施設の利用者なら誰でも使ってええんやろ? なら、俺もやな」
なぜ津川がそんなことを知っているのか。坂口から聞いたのだろうか。全く余計なことを教えてくれたものだ。
しかし、そこまで言われたら美帆も強くは言えない。
「か、勝手にしてください」
津川を無視して社員食堂に入ったものの、食堂は人が多い。おまけに制服姿の美帆は目立った。そして、社員ではない津川の姿も。
美帆は津川はいないものとして食券販売機の前に並んだ。
いつもならどのランチにしようか迷うところだが、後ろから津川が「どれが美味しいん?」と尋ねてくるものだからゆっくり選んでいる時間などない。
「なんでも美味しいですよ」
「じゃあ杉野さんと同じのにするわ」
美帆はもう知らないと適当に定食セットのボタンを押した。さっさと食券を受け取って列に並び、カウンターの中にいる職員に券を渡す。
津川も同じ定食にしたのだろう。見なかったが、職員が津川から食券受け取ると美帆と同じ「定食Bセット」と言った。
カウンターの一番端っこで定食を受け取り、席を探す。どこか人一人分しか空いていない席はないだろうか。だが生憎、そんな席はない。
いつまでも立っているわけにもいかず、美帆は適当に近くの席に座った。そして、津川は美帆の真向かいを選んで座った。
「どうして私の前に座るんですか」
「だってここにいる知り合い杉野さんしかおらんし。せっかくやしええやん」
「……ほんっとうにあなたは何を考えているか分からない人ですね」
「せやな。自己紹介しよか? 俺のことなんでも聞いてええで。津川文也。二十九歳。独身」
「誰もそんなこと聞いてません」
「杉野さんはいつもここでご飯食べるん?」
「……そうです」
「なんか新鮮やな」
「っていうか、あなたみたいな人はこういうご飯は食べないんじゃないんですか。外に行けばもっと色々あるじゃないですか」
津川商事の御曹司がこんなところで千円もしない定食を食べている方が意外だ。
面倒だが外食の方がクオリティも味もいいランチが食べられる。
「そんなことないで。俺普段は定食よう食べるし。唐揚げ定食めっちゃ好き。な、今度一緒に食べにいかん?」
美帆は混乱していた。
津川の魂胆が分からない。何か企んでいるのなら、一体何を? わざわざ社員食堂までついて来て、こんなふうに話して一体何かあるだろうか。
一応取引先の社長だから仲良くなっておいた方がいいのは確かだが、こんな態度を取られたことがないからどうすればいいか分からない。
津川は社員食堂でやたら目立っている。そうでなくとも受付嬢は目立つのに、それに津川のビジュアルまで加わったら大変だ。
「杉野さん、男連れてるけど。アレ誰?」
なんとなく背中の方で声が聞こえた。わざわざ振り返ってまで確かめなかったが、自分のことだと言うことは分かった。
「ほんっと男漁り激しいよね、杉野さんって」
「自分だけ行き遅れてるから焦ってるんじゃない?」
「受付嬢だからって色目使いすぎ」
小声だが、しっかりと聞こえている。誰かまでは分からないが、そんなことは重要ではない。
美帆は止めていた箸を動かし、煮物を口に放り込んだ。
────いつものこと。別に今に始まったことじゃない。
受付嬢だから仕事で役員と話したり、役職者と話すのは仕方のないことだ。でもやっかんでくる人は一定数いる。それでもなんとかやってきたのに。
よりによって津川といる時に。トレーの中の定食はまだ半分も減っていないしお冷だって並々注がれている。席を立つには早すぎた。
早く食べて受付に戻ろう。ここにいるとまた余計なことを聞いてしまいそうだ。
「うっせえな。ごちゃごちゃ喋んなや」
突然美帆の目の前から声が聞こえた。少しして、その怒声が自分の後方に向けられたものだと気がついた。
決して大きな声ではなかったが、津川の声は十分目的のものへ届いていただろう。美帆は驚いて口の中にある煮物を噛むのも忘れた。
────なんで津川さんが怒ってるの?
出会った時は津川だって同じことを言っていたはずだ。なのに今度は同じことを言う女子を非難する?
けれどそれはこの間謝られた。津川も今は、そう思っていないのだろうか。どうしてそんなこと思ったのだろう。なぜ評価が変わったのだろう。
津川のせいか、休憩時間が終わるからなのか、なんだか周囲から人がいなくなった。美帆は静かになった辺りを確認して、ようやくそっと顔を上げた。
「どうしてあんなこと……みんな驚いてたじゃないですか」
美帆は津川を嗜めた。
心配になったのだ。津川がいくら御曹司とはいえ、取引先の子会社の社長だ。契約を切られるとか、そういう心配をしないのだろうか。
津川は気にも留めていない様子で定食を食べ続けている。
「ええねん。俺ああいうせこいの嫌いやし。正々堂々言えへんってことは自信ないからや。そんな卑怯もんにごちゃごちゃ言われる筋合いないわ」
「……あなたは関係ないじゃないですか」
「ないけど、不愉快やったから。勝手なことしてごめんな」
本当に勝手だ。だが、もっと勝手なのは自分の方だ。
そんなことってあるだろうか。都合のいい頭を鈍器で叩きたい気分だ。
頭の中にはこの間見たドラマの主人公たちが浮かぶ。ドラマティックな展開に心ときめくヒロインとヒーロー。
────誰よ。ドラマの見過ぎなんて言ったの。
恋愛は心が動かなければ始まらない。始まったのだとしたら、今だ。
さあこれから休憩に行こうと立ち上がった時だった。
また突然津川が訪ねて来て、美帆は休憩に行くタイミングを見失った。
「たまたまですよ。近くに寄ったので」
津川はニコニコしている。確信犯だ。
「随分都合良くうちの会社が近くにあるんですね。きっとあなたの目的地から半径百メートル以内にはいつもうちの会社があるんでしょう」
「どこか行くんですか?」
「ええ、これから休憩しようと思っていたところです。なので残念ですがここで失礼いたします」
美帆はカウンターから出て足速に社員食堂へ向かった。だがすぐに後ろから津川がやって来る。美帆の隣にはあっという間に津川が並んだ。
「ちょっと、どうして私の後をついて来るんですか」
「俺も腹減ったから飯にするわ」
「私は社員食堂に行くんです」
「ここの社員食堂、施設の利用者なら誰でも使ってええんやろ? なら、俺もやな」
なぜ津川がそんなことを知っているのか。坂口から聞いたのだろうか。全く余計なことを教えてくれたものだ。
しかし、そこまで言われたら美帆も強くは言えない。
「か、勝手にしてください」
津川を無視して社員食堂に入ったものの、食堂は人が多い。おまけに制服姿の美帆は目立った。そして、社員ではない津川の姿も。
美帆は津川はいないものとして食券販売機の前に並んだ。
いつもならどのランチにしようか迷うところだが、後ろから津川が「どれが美味しいん?」と尋ねてくるものだからゆっくり選んでいる時間などない。
「なんでも美味しいですよ」
「じゃあ杉野さんと同じのにするわ」
美帆はもう知らないと適当に定食セットのボタンを押した。さっさと食券を受け取って列に並び、カウンターの中にいる職員に券を渡す。
津川も同じ定食にしたのだろう。見なかったが、職員が津川から食券受け取ると美帆と同じ「定食Bセット」と言った。
カウンターの一番端っこで定食を受け取り、席を探す。どこか人一人分しか空いていない席はないだろうか。だが生憎、そんな席はない。
いつまでも立っているわけにもいかず、美帆は適当に近くの席に座った。そして、津川は美帆の真向かいを選んで座った。
「どうして私の前に座るんですか」
「だってここにいる知り合い杉野さんしかおらんし。せっかくやしええやん」
「……ほんっとうにあなたは何を考えているか分からない人ですね」
「せやな。自己紹介しよか? 俺のことなんでも聞いてええで。津川文也。二十九歳。独身」
「誰もそんなこと聞いてません」
「杉野さんはいつもここでご飯食べるん?」
「……そうです」
「なんか新鮮やな」
「っていうか、あなたみたいな人はこういうご飯は食べないんじゃないんですか。外に行けばもっと色々あるじゃないですか」
津川商事の御曹司がこんなところで千円もしない定食を食べている方が意外だ。
面倒だが外食の方がクオリティも味もいいランチが食べられる。
「そんなことないで。俺普段は定食よう食べるし。唐揚げ定食めっちゃ好き。な、今度一緒に食べにいかん?」
美帆は混乱していた。
津川の魂胆が分からない。何か企んでいるのなら、一体何を? わざわざ社員食堂までついて来て、こんなふうに話して一体何かあるだろうか。
一応取引先の社長だから仲良くなっておいた方がいいのは確かだが、こんな態度を取られたことがないからどうすればいいか分からない。
津川は社員食堂でやたら目立っている。そうでなくとも受付嬢は目立つのに、それに津川のビジュアルまで加わったら大変だ。
「杉野さん、男連れてるけど。アレ誰?」
なんとなく背中の方で声が聞こえた。わざわざ振り返ってまで確かめなかったが、自分のことだと言うことは分かった。
「ほんっと男漁り激しいよね、杉野さんって」
「自分だけ行き遅れてるから焦ってるんじゃない?」
「受付嬢だからって色目使いすぎ」
小声だが、しっかりと聞こえている。誰かまでは分からないが、そんなことは重要ではない。
美帆は止めていた箸を動かし、煮物を口に放り込んだ。
────いつものこと。別に今に始まったことじゃない。
受付嬢だから仕事で役員と話したり、役職者と話すのは仕方のないことだ。でもやっかんでくる人は一定数いる。それでもなんとかやってきたのに。
よりによって津川といる時に。トレーの中の定食はまだ半分も減っていないしお冷だって並々注がれている。席を立つには早すぎた。
早く食べて受付に戻ろう。ここにいるとまた余計なことを聞いてしまいそうだ。
「うっせえな。ごちゃごちゃ喋んなや」
突然美帆の目の前から声が聞こえた。少しして、その怒声が自分の後方に向けられたものだと気がついた。
決して大きな声ではなかったが、津川の声は十分目的のものへ届いていただろう。美帆は驚いて口の中にある煮物を噛むのも忘れた。
────なんで津川さんが怒ってるの?
出会った時は津川だって同じことを言っていたはずだ。なのに今度は同じことを言う女子を非難する?
けれどそれはこの間謝られた。津川も今は、そう思っていないのだろうか。どうしてそんなこと思ったのだろう。なぜ評価が変わったのだろう。
津川のせいか、休憩時間が終わるからなのか、なんだか周囲から人がいなくなった。美帆は静かになった辺りを確認して、ようやくそっと顔を上げた。
「どうしてあんなこと……みんな驚いてたじゃないですか」
美帆は津川を嗜めた。
心配になったのだ。津川がいくら御曹司とはいえ、取引先の子会社の社長だ。契約を切られるとか、そういう心配をしないのだろうか。
津川は気にも留めていない様子で定食を食べ続けている。
「ええねん。俺ああいうせこいの嫌いやし。正々堂々言えへんってことは自信ないからや。そんな卑怯もんにごちゃごちゃ言われる筋合いないわ」
「……あなたは関係ないじゃないですか」
「ないけど、不愉快やったから。勝手なことしてごめんな」
本当に勝手だ。だが、もっと勝手なのは自分の方だ。
そんなことってあるだろうか。都合のいい頭を鈍器で叩きたい気分だ。
頭の中にはこの間見たドラマの主人公たちが浮かぶ。ドラマティックな展開に心ときめくヒロインとヒーロー。
────誰よ。ドラマの見過ぎなんて言ったの。
恋愛は心が動かなければ始まらない。始まったのだとしたら、今だ。