とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
勤務中、ふと内線の電話が鳴った。美帆はいつもの要領で電話を取った。
「はい。総合受付、杉野です」
『お疲れ様です。秘書課の青葉です』
「あ、青葉さん。お疲れ様です」
青葉から電話がかかってくることは珍しいことではない。役員が絡む会議などの手配は全て社長秘書である青葉が行っている。
最近は後輩の胡桃坂という男性社員にも仕事を振っているようだったが、仕事を主導しているのは青葉だ。
『実は、社長と一緒に仕事のことでご相談があるのですが……少しお時間をいただきたいので、空いている時間を教えてもらえませんか。今日が難しいなら別の日でも構いません』
「空いている時間ですか? ちょっと待ってください」
杉野は電話を一旦保留にして隣にいた沙織に尋ねた。
「沙織、今日どこかでちょっと抜けてもいい? 社長のところ行かないといけないの」
「社長? オッケー。なんの話だろうね」
「さあ……」
保留にしていた電話をもう一度繋ぐ。
「もしもし、お待たせしてすみません。今日の────何時でも大丈夫です。そちらの都合に合わせます」
『ありがとうございます。じゃあ、十三時半でどうでしょう』
「分かりました。その時間にそちらに伺います」
受話器を置いて沙織に向き直る。
「ごめん。昼過ぎに抜けるね」
「社長が話って、仕事のこと?」
「仕事のことで相談って言ってたよ。大きな会議でもやるんじゃないかな」
美帆は特に気にしなかった。いつものことだとサラッと流した。
昼休憩を終えて、約束した十三時半の少し前に社長室に向かった。
社長室には何度も行ったことがあるから萎縮することはない。藤宮の社長は数年前に代替わりしてかなり若い女性になった。先代社長の娘だ。
美帆よりも年下だが、しっかりしていて偉そうなところはないし、仕事も前よりしやすくなった。美帆としては有り難い社長だ。
社長室があるフロアは秘書課と社長室しかない。エレベーターを降りて右手に秘書課。まっすぐ進むと社長室だ。
美帆は社長室の前まで進み、ノックをした。
「失礼致します」
ドアを開けてお辞儀をする。顔を上げると、既に青葉と社長がいた。いつもの二人組だ。
「待ってたわ。どうぞ」
社長と青葉がソファに座り、美帆もローテーブルを挟んで向かいにあるソファに座る。
「杉野さん、何か飲む?」社長が尋ねた。
「いえ、お気遣いなく。それより社長、今日はお子さんは……?」
「今日は保育所に預けてるの。だから大丈夫よ」
社長は少し前に子供を出産したばかりだ。それなのに仕事に戻らなければんらないなんて、大変そうだ。常務や青葉がいるから仕事は回っているのだろうが、それでも忙しいだろう。
「それで、そのことで相談があるんだ」青葉が切り出した。
「実は私のこともそうなんだけど、青葉の奥さんも出産が近くてね。今はなんとかしてるんだけど、生まれたら青葉も休まないといけないだろうし、私も休む時があるから仕事が回らないかもしれないの」
「では、そのサポートをさせて頂くということですね」
「ええ。胡桃坂君もいるけどまだ完全に引き継いでるわけじゃないし、青葉の仕事は杉野さんも把握しているからできると思うんだけど……ただ、受付の仕事もあるし。無理には言わないわ」
「一応みんなにも相談しますが、私が抜けても任せられる子達ばかりですし、問題ないと思います。またみんなに伝えてから改めてお返事させて頂いてもいいでしょうか」
「もちろん」
仕事自体は問題ないだろう。先代社長の時も何度か秘書が不在の時に代行で勤めたことがある。社長と青葉の仕事は把握しているし、恐らく同僚達も何も言わない。
「杉野さんは、秘書の仕事は興味ない?」
「え?」
突然、社長が言った。
「ごめんなさいね。ちょっと気になったの。杉野さんの前任の受付嬢はほとんど寿退社してる人が多くて。色々聞いたらみんな続けることに不安を感じてる人が多かったみたいだから……」
「あ……」
社長の話は身に覚えがあることだった。受付嬢のほとんどは二十、三十代のうちに辞めている。大概寿退社が多いが、続けている人間は見たことがない。
実際、自分もどうしようかと思っていたことだった。いつまでも受付嬢なんて続けられないだろうし、いつかは辞めなければならないと思っていた。不安になるからその先のことは考えないようにしていた。
「だから秘書課の方に回ってもらったらどうかって青葉と話していたの。もちろんやる気があればだし、無理にとは言わないわ。希望があれば、ね」
「それは……すごく有難いお話ですね」
「受け付けの人は秘書課の仕事もある程度把握してるし、抵抗なくできると思うの。ね、青葉」
「今回サポートを頼むついでに、仕事しながらでいいので考えてみてくれませんか」
「……分かりました。少し、考えてみます」
もし受付から秘書課に移動できるのなら大変な出世だ。
受付嬢は一応総務に分類されるが、受付嬢から移動しても仕事の内容が変わりすぎて馴染むのに時間がかかる。その上、元受付嬢なんて変な色眼鏡で見られかねない。
秘書課は社員達の憧れだ。新人の胡桃坂が採用される前は青葉が一人で対応していたが、募集が出た時はものすごい数の応募があったという。受付嬢に並ぶ花形の仕事だ。みんなやりたいに違いない。
その分仕事は大変だろうが、仕事の内容も大体は同じだ。社外への移動は増えるだろうが、別に苦ではない。
秘書課に行けば恋人のことで悩む必要もない。ずっと仕事を続けられる────。
ただ、なんとなく津川と滝川のことが頭をよぎった。
秘書課の仕事を手伝っていたら二人には会えないかもしれない。少なくとも、会う頻度は今以下になる。清掃の滝川とは会えるかもしれないが、津川は会えないだろう。
そう思うと寂しい気持ちになった。変だ。会えなくて寂しくなるほど親しい関係でもないのに、どうして津川と離れることが辛いと感じるのだろう。
────おかしいって。滝川さんと津川さん両方にドキドキするなんて、本当に尻軽女じゃない。
うまく考えられないのは突然の話のせいか。それとも自覚したせいだろうか。
二人両方好きになるなんて、あり得ない。
「はい。総合受付、杉野です」
『お疲れ様です。秘書課の青葉です』
「あ、青葉さん。お疲れ様です」
青葉から電話がかかってくることは珍しいことではない。役員が絡む会議などの手配は全て社長秘書である青葉が行っている。
最近は後輩の胡桃坂という男性社員にも仕事を振っているようだったが、仕事を主導しているのは青葉だ。
『実は、社長と一緒に仕事のことでご相談があるのですが……少しお時間をいただきたいので、空いている時間を教えてもらえませんか。今日が難しいなら別の日でも構いません』
「空いている時間ですか? ちょっと待ってください」
杉野は電話を一旦保留にして隣にいた沙織に尋ねた。
「沙織、今日どこかでちょっと抜けてもいい? 社長のところ行かないといけないの」
「社長? オッケー。なんの話だろうね」
「さあ……」
保留にしていた電話をもう一度繋ぐ。
「もしもし、お待たせしてすみません。今日の────何時でも大丈夫です。そちらの都合に合わせます」
『ありがとうございます。じゃあ、十三時半でどうでしょう』
「分かりました。その時間にそちらに伺います」
受話器を置いて沙織に向き直る。
「ごめん。昼過ぎに抜けるね」
「社長が話って、仕事のこと?」
「仕事のことで相談って言ってたよ。大きな会議でもやるんじゃないかな」
美帆は特に気にしなかった。いつものことだとサラッと流した。
昼休憩を終えて、約束した十三時半の少し前に社長室に向かった。
社長室には何度も行ったことがあるから萎縮することはない。藤宮の社長は数年前に代替わりしてかなり若い女性になった。先代社長の娘だ。
美帆よりも年下だが、しっかりしていて偉そうなところはないし、仕事も前よりしやすくなった。美帆としては有り難い社長だ。
社長室があるフロアは秘書課と社長室しかない。エレベーターを降りて右手に秘書課。まっすぐ進むと社長室だ。
美帆は社長室の前まで進み、ノックをした。
「失礼致します」
ドアを開けてお辞儀をする。顔を上げると、既に青葉と社長がいた。いつもの二人組だ。
「待ってたわ。どうぞ」
社長と青葉がソファに座り、美帆もローテーブルを挟んで向かいにあるソファに座る。
「杉野さん、何か飲む?」社長が尋ねた。
「いえ、お気遣いなく。それより社長、今日はお子さんは……?」
「今日は保育所に預けてるの。だから大丈夫よ」
社長は少し前に子供を出産したばかりだ。それなのに仕事に戻らなければんらないなんて、大変そうだ。常務や青葉がいるから仕事は回っているのだろうが、それでも忙しいだろう。
「それで、そのことで相談があるんだ」青葉が切り出した。
「実は私のこともそうなんだけど、青葉の奥さんも出産が近くてね。今はなんとかしてるんだけど、生まれたら青葉も休まないといけないだろうし、私も休む時があるから仕事が回らないかもしれないの」
「では、そのサポートをさせて頂くということですね」
「ええ。胡桃坂君もいるけどまだ完全に引き継いでるわけじゃないし、青葉の仕事は杉野さんも把握しているからできると思うんだけど……ただ、受付の仕事もあるし。無理には言わないわ」
「一応みんなにも相談しますが、私が抜けても任せられる子達ばかりですし、問題ないと思います。またみんなに伝えてから改めてお返事させて頂いてもいいでしょうか」
「もちろん」
仕事自体は問題ないだろう。先代社長の時も何度か秘書が不在の時に代行で勤めたことがある。社長と青葉の仕事は把握しているし、恐らく同僚達も何も言わない。
「杉野さんは、秘書の仕事は興味ない?」
「え?」
突然、社長が言った。
「ごめんなさいね。ちょっと気になったの。杉野さんの前任の受付嬢はほとんど寿退社してる人が多くて。色々聞いたらみんな続けることに不安を感じてる人が多かったみたいだから……」
「あ……」
社長の話は身に覚えがあることだった。受付嬢のほとんどは二十、三十代のうちに辞めている。大概寿退社が多いが、続けている人間は見たことがない。
実際、自分もどうしようかと思っていたことだった。いつまでも受付嬢なんて続けられないだろうし、いつかは辞めなければならないと思っていた。不安になるからその先のことは考えないようにしていた。
「だから秘書課の方に回ってもらったらどうかって青葉と話していたの。もちろんやる気があればだし、無理にとは言わないわ。希望があれば、ね」
「それは……すごく有難いお話ですね」
「受け付けの人は秘書課の仕事もある程度把握してるし、抵抗なくできると思うの。ね、青葉」
「今回サポートを頼むついでに、仕事しながらでいいので考えてみてくれませんか」
「……分かりました。少し、考えてみます」
もし受付から秘書課に移動できるのなら大変な出世だ。
受付嬢は一応総務に分類されるが、受付嬢から移動しても仕事の内容が変わりすぎて馴染むのに時間がかかる。その上、元受付嬢なんて変な色眼鏡で見られかねない。
秘書課は社員達の憧れだ。新人の胡桃坂が採用される前は青葉が一人で対応していたが、募集が出た時はものすごい数の応募があったという。受付嬢に並ぶ花形の仕事だ。みんなやりたいに違いない。
その分仕事は大変だろうが、仕事の内容も大体は同じだ。社外への移動は増えるだろうが、別に苦ではない。
秘書課に行けば恋人のことで悩む必要もない。ずっと仕事を続けられる────。
ただ、なんとなく津川と滝川のことが頭をよぎった。
秘書課の仕事を手伝っていたら二人には会えないかもしれない。少なくとも、会う頻度は今以下になる。清掃の滝川とは会えるかもしれないが、津川は会えないだろう。
そう思うと寂しい気持ちになった。変だ。会えなくて寂しくなるほど親しい関係でもないのに、どうして津川と離れることが辛いと感じるのだろう。
────おかしいって。滝川さんと津川さん両方にドキドキするなんて、本当に尻軽女じゃない。
うまく考えられないのは突然の話のせいか。それとも自覚したせいだろうか。
二人両方好きになるなんて、あり得ない。