とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 秘書課の仕事の引き継ぎがある程度終わり、美帆は久しぶりに受付の仕事に戻った。

 また時期が来れば本格的に秘書課の仕事がメインになるだろうが、しばらくは半々でいけるだろう。

 秘書の仕事は思っていたよりかなり忙しい。あれを青葉と胡桃坂の二人でこなしていたと聞いた時は驚きだったが、二人が有能だからなんとかなったのだろう。自分もサポートではなく、本当に秘書になるつもりでやらなければと身が引き締まった。

 久しぶりに受付に戻ったからか、なんだかホッとした。慣れた仕事というのは有難いものだ。ここ最近はずっと緊張していたからか、隣に詩音がいるだけで実家に帰ったような気分になった。

「美帆さん、また秘書課の方に戻るんですか?」

「うん、青葉さんが育休とったらね」

「はぁ、また寂しくなりますね」

「可愛いこと言っちゃって。うるさい上司がいない方がいいんじゃない?」

「美帆さんがいないと私が一番おしゃべりになるじゃないですか」

「こらっ」

「ふふ。あ、そうだ。少し前に津川さんが来たんです」

「えっ」

「でも美帆さんが秘書課に行ってる時だったので……普通に仕事して帰っちゃいましたけど」

「……そう」

 美帆は自分を叱咤した。津川が仕事しに来るのは当たり前だ。受付に寄るのは自分に会いにきているわけではない。

 けれど、自分がいないことに気が付いて少しでも何か思っていてくれないだろうかなんて考えた。

 内線の電話が鳴った。詩音が電話を取った。会話の感じを聞く限り、来客対応だろう。詩音の声のトーンが高い。

 やがて受話器を置くなり、詩音はにこやかに言った。

「美帆さんっ、午後から津川さんがいらっしゃるんですって!」

 詩音の言葉を聞いた途端、美帆の心臓が固まる。その名前を聞いただけでなんだか動悸がしてきた。

「応接室を用意しておいて欲しいそうです。よかったですね〜会えますよ!」

 津川が来る。嬉しいはずなのに落ち着かない。少し前の気まずい別れから一度も会っていないのだ。またあんなふうになったらどうしようという思いが湧き上がる。




 ソワソワしたまま午後を迎えた。適当に予定が入ってこの場から抜け出したい気もしたが、これを逃すとまた津川と会えなくなるような気もする。

 ようやく時間が来て、エントランスから入ってきた津川を見つけた。だが、その横には知らない女性がいた。

「津川さん、こんにちは!」

 嬉しそうに挨拶をしたのは美帆の横にいる詩音だ。美帆は津川の横にいる女性に意識を集中させていて、声をかけるのが遅れた。

「どうも」

 津川は一瞬美帆を見て、スッと視線を外した。

 ────どうして?

「今日はお連れさまがいらっしゃるんですね」

「うちの事務員の武井です。大事な取引先ですから、挨拶させておこうと思いまして」

「武井です。いつもうちの社長がお世話になっております」

 武井はペコリと頭を下げた。可愛らしい風貌の女性だ。歳は美帆よりも何歳か下だろうか。まだ幼い感じがする。

 たまたま偶然、社員を連れてきただけだろうか。今まで一人でしか来たことがなかったのでその光景に違和感を感じた。

 津川は相変わらず喋っているが、美帆の方は見ようともしない。まるで意識的に視線を逸らしているみたいだった。

 分かっているのに、声が掛けられない。

「美帆さん、ご案内お願いします」

 気を利かせてくれたのだろう。詩音はにっこり笑った。

「こちらへどうぞ」

 ちゃんと笑えているだろうか。分からない。ただ、そうであると仮定して美帆はカウンターから出た。

 二人は後ろをついて来ているが、何か喋っている。薄らその会話が聞こえた。

「社長、ここだと猫の皮被ったみたいですね」

「当たり前やろ。取引先やねんから」

「標準語、似合ってないですね〜すごい違和感です」

「うっさいわ」

 二人は仲がいいのだろうか。なんだかくだけた印象だ。

 そんなことを考えながら、美帆は静かにショックを受けた。

 当たり前の話だが、津川が関西弁を喋っていることに驚いた。ここに来た時はいつも標準語だし、自分以外の人間の前では基本そうだった。

 彼にも自分を見せる人間がいる。そんな当然のことを考えた。そして、思い知った。

 ────私、津川さんが好きなんだ。

 いつかの他愛無いやりとりが懐かしかった。そんな昔のことでもないのに、津川が変わってしまったような気分になる。

 出会った時から強烈だった。いい子ちゃんぶる自分を彼がぶち壊した。口が達者で自分を守ってなどいられない。彼の前では素を出さずにはいられなかった。

 けれどそれはとても苦しいことだった。心を開けたと思えた後でこんなふうに自分が特別でなかったことを知ると、そんな小さなことも耐えられない。

 十代や二十代のうちなら見過ごせていたことも、いちいち悲観的に捉えてしまう。

 いつものように津川を責めることはできなかった。彼が好きだと気付いた後だから。
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