とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「珍しいですね。社長が私を取引先に連れていくなんて」

 隣の席に座った武井が言った。金属音の擦れるようなブレーキ音が響く。電車が駅に到着したようだ。

「ええやんか。ずっと座ってるとお尻痛いって言ってたんやから」

「それ、セクハラですよ」

「自分が言ってたんやんか」

 電車から降りてホームの階段を登る。文也は人の波に揉まれながら先程受付で見た杉野の顔を思い出した。

 ぎこちない表情。うわべだけの笑顔。なぜだか、苦しくなった。

 ────しばらく会わへんと思ったら、もう他人かい。

 そんな彼女が憎たらしい。いつぞや見せてくれたあの笑顔はいったいどこへ行ったのだろう。

「あ、分かった。苦手な人がいるんでしょう。だから一緒に来いって言ったんですか」

「アホか。んなわけないやろ」

「だって、ずっと緊張してるみたいだったので。やっぱりあんな大きな会社だと萎縮しますよね。受付嬢の人もいて、みんなキビキビ働いてて、うちの会社と雰囲気全然違いますから」

 仕事は相変わらずうまくいっている。だから取引際相手でも緊張はしない。するとしたら、父親や兄と話す時ぐらいだ。それに比べれば藤宮などまだかわいい方だ。

 だが、確かに武井を連れて行ったのは緊張していたからだ。一人で杉野に会いに行って、どう話せばいいか分からなかった。

 しかし結果は同じだ。武井といても変わらない。それどころかかえって杉野が冷たく見えて、余計に虚しさが増した。



 ようやく会社に着いた。文也は仕事を始めたが、能率は上がらない。パソコンの画面を見ても頭の中は杉野でいっぱいだった。

 ────あかん。集中できへん。

 せめて一言でも話していれば変わっただろうか。

 だが、武井を連れて行ったことが仇になって話しかけることはできなかった。それだったら気不味くても一人で行った方がよかったかもしれない。

 こんなところでもやもやしているなんて性に合わない。文也はスマホを取り出し、メッセージを打ち込んだ。

 送信先は杉野だ。簡潔に、会いたい気持ちを文章にしたためた。

 だが、送り主は文也ではない。滝川だ。文也は杉野と連絡先すら交換していなかった。だから送りたくても送れない。それに、この状況では何を言われるか分からない。

 滝川ならまともに喋ってもらえるだろう。滝川は自分と違って杉野に好かれている。

 二度ほど見返し、送信した。大きく息をつき、机の上に置かれたまま時間が経ってすっかり冷めたコーヒーを口にする。

 杉野は最近ほとんど受付に立っていなかった。秘書課の仕事は手伝っているだけのようだが、希望すれば移動もありうるだろう。

 あれから仕事はどうだろうか。受付に立っているということは、秘書課の手伝いは終わったのだろうか。それなら青葉秘書と関わることはなくなるだろうか。

 仲良さげに歩く二人を思い出す。またむしゃくしゃした。

 デスクの上に置いたスマホが震えた。文也は反射的にスマホの画面を見た。

 だが、画面に映るそれは期待したものと全く違った。思わず大声を出していた。

「はぁ!? どういうことやねん!?」

 同じフロアで仕事をしていた社員達が驚いて顔をあげる。文也はスマホの画面を見ながら急いで部屋を出た。

 廊下へ出たところで、揺れた画面が静止する。だが、書かれていた文字に見間違いはない。

『ごめんなさい。好きな人ができたのでもう会えません』

 文也は突然のことで混乱した。自分が置かれている状況も、現在起こっていることも把握できなかった。

 一体どういうことなのだろう。なぜ杉野はこんな文章を送って来たのか。

 杉野は滝川に対し好意らしきものを抱いていたはずだ。恋ではないかもしれないが確実に友好的に見ていた。

 ────好きな人が出来た? 一体誰やねん。

 文也はすぐに青葉秘書を思い浮かべた。それ以外あるだろうか。タイミングといい、バッチリすぎる。

 二人には噂があった。杉野が青葉秘書のことを好きでも不思議ではない。おまけに青葉は仕事も出来て見た目も良くて性格がいい。三拍子揃った男だ。そんな男が近くにいて好きにならないはずがない。

 なんだか力が抜けてきた。信じられない気持ちと遣る瀬無さで頭がおかしくなりそうだ。

 滝川なら好きになってもらえるなんて思った馬鹿は一体どこのどいつだろう。とんだ間抜けだ。そんなことはカケラもなかった。

 だが、これは当然の結果だ。最初から、杉野と自分は結びつかない位置にいた。

 最悪の勘違いから最悪の出会いを果たし、誤解を重ね、酷く傷つけた。それに付け加え自分は杉野を利用していた。もはや幸福な展開など期待すべきではない。

 それでも、杉野は心を開いてくれた。ただ冷たい女性ではなかった。素直じゃない態度の中にもちゃんと優しさが見えていた。

 だから楽しかった。一緒にいて気楽だった。この計画を忘れてしまうほど。身の程知らずに恋をしてしまうほど。
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