とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
────いい歳こいて失恋なんて、みっともない。
久しぶりに泣いたせいで昨夜は目がパンパンに腫れた。蒸しタオルや保冷剤でなんとか原型を取り戻したものの、美帆のまぶたはいつもより重かった。腫れてはいないが、なんとなくいつもと違う。
わんわん泣くほどのことではないが、冷蔵庫にあった買い置きのビールが全部無くなるぐらいには酒に浸った。そうしないと眠れなさそうだったし、いつまでも泣いていそうだった。
悲しみのあまり滝川に送ったメッセージに返信はない。多分、もう帰ってこないだろう。
滝川の思いは知らないが、好意はあったはずだ。そんな相手に「好きな人ができた」と送ったのだからもうご縁は切れたも同然だ。
同じ会社に勤める人間にそんなひどい言葉をかけるべきではないかもしれないが、嘘をついても仕方ない。
それに、あのまま滝川と関わっていたとしても津川のことを思い出して辛くなるだけだ。顔が同じだからって乗り換えれるほど軽い気持ちじゃない。
滝川が避けているのか、それも偶然なのか。会社の中で滝川に会うことはなかった。だが、かえってそのほうがよかった。
「おはようございます、杉野さん」
秘書課に行くと、既に青葉がいた。このフロアで一番早く出勤する男だ。美帆は青葉よりも先に来たことがなかった。
「おはようございます」
「顔色が悪いみたいですけど……大丈夫ですか」
「え? あ、いえ。大丈夫ですよ」
「仮眠室もありますし、無理しないでくださいね」
今日の仕事は有難いことにこちらだ。おかげで津川とも滝川とも顔を合わせずに済む。
待っていると胡桃坂、社長に常務も出勤してきた。秘書課はほぼ男しかいないが、常務は基本的に出払っているし青葉や胡桃坂も社長との同行でいないことが多い。美帆も社長と同行することはあったが、現在は青葉がいるため週に何度かだけだ。
こうしてしばらく秘書の仕事をしてみたが、思っていた以上に楽しかった。男ばかりでやっかまれそうなのが唯一の難点だが、それは今と変わらない。
もういっそこのまま秘書課に移動してしまおうか。
津川は自分のことになどまったく興味なさそうだし、付き合ってもらえる可能性は低い。せいぜい、仲のいい友達止まりだ。それなら仕事に精を出して男のことなど忘れてしまった方がいい。
きっと自分には恋愛など向いていない。素の自分なんて出しても幻滅されるだけでいいことなんてない。
もう一つ、秘書の悪い点がある。受付嬢と違って、きっちり定時に上がれないことだ。
会社にいて仕事がなければもちろん帰っても問題ないが、確実にそうである保証はない。外出していればその分遅れるし、社長の予定に合わせて勤務時間が延びることもある。
だが、社長の配慮なのか基本的には先に上がらせてもらえるため、余程のことがなければ長々と残業することはなかった。
やっとキリのいいところまで仕事が片付き、時計を見た。六時オーバー。だが、早い方だ。
胡桃坂は残っていたが、青葉は既に退社している。美帆もそろそろあがろうと思った。
「胡桃坂君はまだ残る?」
「あ、僕はもうちょっとだけ残ります」
「じゃあ、悪いけどここの戸締りお願いしてもいい?」
「はい。やっておきます。お疲れ様です」
胡桃坂を残し荷物を持って秘書課を後にする。
だが、急いで帰る用事はない。見たいドラマは録画しているし、適当に晩御飯でも買って帰ろうか。
さっさと寝て、失恋のことなんて忘れてしまおう。仕事に没頭していれば男のことなんて忘れるはずだ。
六時ともなればロビーは薄暗い。社員達の多くは定時で上がっているはずだから人はほとんどいなかった。受付嬢達も帰ったようだ。
回転扉を抜けて外へ出た。いつもより暗い、街灯が照らす夜道にぼんやり浮かぶ人影がなんとなく津川の姿に見えた。
────そんなに津川さんに会いたいなんて、重症ね。
情けない自分に心の中で毒を吐き、駅へ向かおうと足を進めた。その人影も美帆の方へ向かって歩いてきた。
美帆が驚いて立ち止まって少しして、人影はようやく顔が見えるぐらいの位置にきた。
その人物は睨むように厳しい瞳で美帆を見つめた。美帆はただ驚いて言葉を発することも出来なかった。
どうして津川がここにいるのだろう。
「どうしたんですか。津川さん……もう会社は閉まってますけど」
何か言わなくちゃ。そう思って無理やり喋る。けれど津川の顔は不機嫌なままだ。
「もしかして、担当者に何か用事ですか? お急ぎなら取り継ぎますけど────」
「用があるのは担当者ちゃう。杉野さんの方」
「……私、ですか」
津川は不機嫌そうな瞳を落とした。それからたっぷり間を開けて口を開いた。
「もう帰るん」
「は、はい」
待っていたんですか? とは尋ねられなかった。だが、だとしたら津川がこんなところで待っている意味が分からない。
「あの……用事って……?」
「飯、付き合って」
「は?」
「前に言ったやろ。ご飯行きましょうって」
津川の視線がまた一層厳しくなる。
────だから、なんでそんなに怒ってるの?
怒りながら言うことではない。だが、わざわざこんなところで待っていたなんて、何か話があるのだろうか。一体どんな?
「……分かりました」
やっと返事をしたのに、津川はまだ怒っている。その顔を見ると不安が掻き立てられるのに、会いに来てくれたことを嬉しいと思うなんて、脳天気百%だ。
久しぶりに泣いたせいで昨夜は目がパンパンに腫れた。蒸しタオルや保冷剤でなんとか原型を取り戻したものの、美帆のまぶたはいつもより重かった。腫れてはいないが、なんとなくいつもと違う。
わんわん泣くほどのことではないが、冷蔵庫にあった買い置きのビールが全部無くなるぐらいには酒に浸った。そうしないと眠れなさそうだったし、いつまでも泣いていそうだった。
悲しみのあまり滝川に送ったメッセージに返信はない。多分、もう帰ってこないだろう。
滝川の思いは知らないが、好意はあったはずだ。そんな相手に「好きな人ができた」と送ったのだからもうご縁は切れたも同然だ。
同じ会社に勤める人間にそんなひどい言葉をかけるべきではないかもしれないが、嘘をついても仕方ない。
それに、あのまま滝川と関わっていたとしても津川のことを思い出して辛くなるだけだ。顔が同じだからって乗り換えれるほど軽い気持ちじゃない。
滝川が避けているのか、それも偶然なのか。会社の中で滝川に会うことはなかった。だが、かえってそのほうがよかった。
「おはようございます、杉野さん」
秘書課に行くと、既に青葉がいた。このフロアで一番早く出勤する男だ。美帆は青葉よりも先に来たことがなかった。
「おはようございます」
「顔色が悪いみたいですけど……大丈夫ですか」
「え? あ、いえ。大丈夫ですよ」
「仮眠室もありますし、無理しないでくださいね」
今日の仕事は有難いことにこちらだ。おかげで津川とも滝川とも顔を合わせずに済む。
待っていると胡桃坂、社長に常務も出勤してきた。秘書課はほぼ男しかいないが、常務は基本的に出払っているし青葉や胡桃坂も社長との同行でいないことが多い。美帆も社長と同行することはあったが、現在は青葉がいるため週に何度かだけだ。
こうしてしばらく秘書の仕事をしてみたが、思っていた以上に楽しかった。男ばかりでやっかまれそうなのが唯一の難点だが、それは今と変わらない。
もういっそこのまま秘書課に移動してしまおうか。
津川は自分のことになどまったく興味なさそうだし、付き合ってもらえる可能性は低い。せいぜい、仲のいい友達止まりだ。それなら仕事に精を出して男のことなど忘れてしまった方がいい。
きっと自分には恋愛など向いていない。素の自分なんて出しても幻滅されるだけでいいことなんてない。
もう一つ、秘書の悪い点がある。受付嬢と違って、きっちり定時に上がれないことだ。
会社にいて仕事がなければもちろん帰っても問題ないが、確実にそうである保証はない。外出していればその分遅れるし、社長の予定に合わせて勤務時間が延びることもある。
だが、社長の配慮なのか基本的には先に上がらせてもらえるため、余程のことがなければ長々と残業することはなかった。
やっとキリのいいところまで仕事が片付き、時計を見た。六時オーバー。だが、早い方だ。
胡桃坂は残っていたが、青葉は既に退社している。美帆もそろそろあがろうと思った。
「胡桃坂君はまだ残る?」
「あ、僕はもうちょっとだけ残ります」
「じゃあ、悪いけどここの戸締りお願いしてもいい?」
「はい。やっておきます。お疲れ様です」
胡桃坂を残し荷物を持って秘書課を後にする。
だが、急いで帰る用事はない。見たいドラマは録画しているし、適当に晩御飯でも買って帰ろうか。
さっさと寝て、失恋のことなんて忘れてしまおう。仕事に没頭していれば男のことなんて忘れるはずだ。
六時ともなればロビーは薄暗い。社員達の多くは定時で上がっているはずだから人はほとんどいなかった。受付嬢達も帰ったようだ。
回転扉を抜けて外へ出た。いつもより暗い、街灯が照らす夜道にぼんやり浮かぶ人影がなんとなく津川の姿に見えた。
────そんなに津川さんに会いたいなんて、重症ね。
情けない自分に心の中で毒を吐き、駅へ向かおうと足を進めた。その人影も美帆の方へ向かって歩いてきた。
美帆が驚いて立ち止まって少しして、人影はようやく顔が見えるぐらいの位置にきた。
その人物は睨むように厳しい瞳で美帆を見つめた。美帆はただ驚いて言葉を発することも出来なかった。
どうして津川がここにいるのだろう。
「どうしたんですか。津川さん……もう会社は閉まってますけど」
何か言わなくちゃ。そう思って無理やり喋る。けれど津川の顔は不機嫌なままだ。
「もしかして、担当者に何か用事ですか? お急ぎなら取り継ぎますけど────」
「用があるのは担当者ちゃう。杉野さんの方」
「……私、ですか」
津川は不機嫌そうな瞳を落とした。それからたっぷり間を開けて口を開いた。
「もう帰るん」
「は、はい」
待っていたんですか? とは尋ねられなかった。だが、だとしたら津川がこんなところで待っている意味が分からない。
「あの……用事って……?」
「飯、付き合って」
「は?」
「前に言ったやろ。ご飯行きましょうって」
津川の視線がまた一層厳しくなる。
────だから、なんでそんなに怒ってるの?
怒りながら言うことではない。だが、わざわざこんなところで待っていたなんて、何か話があるのだろうか。一体どんな?
「……分かりました」
やっと返事をしたのに、津川はまだ怒っている。その顔を見ると不安が掻き立てられるのに、会いに来てくれたことを嬉しいと思うなんて、脳天気百%だ。