とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「杉野さんはかしこまらん店がええんやろ」

「は、はぁ……」

 でもだからって、普通の居酒屋に入るとは思っていなかった。

 仕事の後だ。店内は賑やかしくて津川の声なんて聞こえたものではない。だが、店の雰囲気がこのテーブルに漂う暗雲を誤魔化してくれることに期待した。

 津川も美帆もそれぞれビールを頼んだ。だが、少し前に来たビールはテーブルの上に置かれたまま飲まれる気配はない。

 なんとなく、お互いこの沈黙を破ってくれる何かを待っているようだった。

「杉野さん、好きな人おるん?」

「えっ!?」

 美帆は素っ頓狂な声を上げた。だが幸い、その声はすぐに居酒屋の喧騒に消えた。

 しかし美帆はそれどころではない。頭の中は大混乱だ。

 ────なんで津川さんがそんなこと聞くの!? まさか、私のことバレた!? え? なんで? 

「そ、そんなのいません! なんでそんなこと聞くんですか!?」

「じゃあ青葉秘書はどうなん」

「青葉さん?」

 なぜその名前が急に出てくるのだろう。津川は青葉のことを知っているのだろうか。まさか自分の噂を聞いて誤解しているのだろうか。

「アイツのこと好きなんちゃうの」

「な……何言ってるんですか! 青葉さんは既婚者ですよ!」

「……は?」

「私は青葉さんのことなんて好きじゃありません! あの人はただの仕事仲間です!」

「じゃあなんであんな親しそうやねん!」

「仕事の関係で話すことが多いだけです! 仲は悪くないですけど……男として見たことなんて一度もありません! 私が既婚者まで手を出すような尻軽女に見えるんですか!?」

 考えていたらなんだか腹が立ってきた。誤解は解けたと思っていたのにまたこんなくだらない勘違いをされるなんて心外だ。今まで自分と青葉のことをそんな目で見ていたのだろうか。

「青葉さんが育休で休むから仕事を手伝ってるだけなのに、なんでそんなこと言われなきゃならないんですか……っあんまりです!」

「……ごめん」

 突然津川の声がおとなしくなった。悲しそうな声に、いきりたった感情は冷水を浴びせられたように落ち着いた。

 なんだか拍子抜けてしてしまって、思わず掴んだ鞄の紐がするりと手のひらをすり抜けた。

「勝手なこと言ってごめん」

 美帆はようやく冷静さを取り戻した。そしてこのシチュエーションに違和感を覚えた。

 津川が誤解していたとして、どうしてそんなことで不機嫌になったのだろう。それを伝えるためにわざわざ会社の前で待っていたのだろうか。

 それが導き出す答えを予想して、一度冷静になった頭がまた沸き始めた。

 そんなわけがない。津川が自分のことが好きなんて、あるわけない。だが、この態度はそうとしか思えない。

「……ほんまに違うねんな?」

 津川は視線だけ上目がちに美帆を見つめた。

「あ……当たり前です。私は────じゃなくて、なんでいきなりそんなこと聞くんですか!」

「な、なんでもええやろ別に」

「まさか滝川さんに聞いたんですか」

「いや、それは……」

 強い口調で咎めると、津川は慌てふためいた。やはりそうだ。滝川から聞いたのだ。

 だが、滝川が人に言ったりするだろうか。口は硬そうだし、やりとりの内容を人に教えるようには見えない。

「た、滝川が落ち込んでてん。それで、理由を聞いてん。せやから、その……」

「……それで、私が青葉さんが好きだって誤解したんですか」

「……そうです」

 なんてことだろう。自分が蒔いた種とはいえ、津川に知られてしまった。しかも、自分に好きな人がいることも。

 だが幸いなのはそれが津川のことだと知られていないことだ。知られていたらとてもこんなところでは吠えられない。

「何を聞いたか知りませんが私は青葉さんのことなんて好きじゃありません。完全な誤解です」

「じゃあ、誰が好きなん」

「え!?」

「アイツじゃないんやったら、他の誰が好きなん」

 ────だから、それはあなただってば。
 
 だが、そんなこと言えるわけもない。言ったら終わりだ。美帆は咄嗟のことでどうしたらいいか分からなくなった。こんなところで告白なんて出来ない。いや、そもそもするつもりなんてなかった。

「じゃ、じゃあ……っ津川さんは誰が好きなんですか」

 ────やってしまった。
 
 自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。そんなこと聞いたって仕方がないことなのに聞いてどうするのだろう。どうせショックを受けて終わりだ。

「お……教えるわけないやろ!」

 やっぱり、いるんだ。今の気持ちを表すならまさに「ガッカリ」だ。だから聞かない方が良かったのだ。

「津川さんが言わないなら私だって言いません」

「なんやねん。勿体ぶるほどいい男なんか」

「それはもう、すごくいい男ですよ。津川さんが好きな女の人なんか目じゃありません」

「んなわけないやろ。どこに目ぇ付けてんねん」

「じゃあ、どこが好きなんですか?」

 じろりと睨みつける。津川はムッとした顔をやや赤らめながら目を逸らした。

「……可愛い」

「……可愛い?」

「あとは、おもろい」

「……関西人ですか」

「ちゃうわ。東京人や」

 まさか、以前会社に連れてきたあの女性だろうか。あまり覚えていないが顔は可愛かった気がする。津川も関西弁で喋っていたし気心知れた相手なのかもしれない。

「……あの人ですか?」

「あの人?」

「前に会った、会社の人です」

「武井? アホか。アイツのどこに可愛さがあるねん」

 即座に津川が否定してホッとした。では、だとしたら誰だろう。

 津川は御曹司だから、自分が知らない相手にたくさん女性と会っているだろう。美人の知り合いだって多いだろうし、言い寄ってくる女性もいるはずだ。

「……俺が好きなんは、もっと美人やし、ちゃんと仕事しててしっかり者や」

 ────ああ、そう。そんなにその人のことが好きなの。それなら自分なんてお呼びでない。

「なら、こんなところで油を売ってないでその人に会いに行ったらどうですか。私もそんなに暇じゃないんです」

 もう聞いてられない。美帆は立ち上がった。ちょっと期待してみればこれだ。夢を見すぎた。

「待ってや」

「これ以上何を話したいんですか。私の好きな人は青葉さんじゃありません。以上です」

「じゃあ誰が好きやねん」

「それを知ってどうするんですか。私の恋愛に協力してくれるんですか」

「それは……出来んけど」

「じゃあどうして私を待ってたんですか。なんでこんな話をするんですか?」

「……気になるからに決まってるやろ」

「誰が」

「目の前でプリプリ怒ってる女や」

 そんな変な効果音をつけられたのは人生で初めてだ。キビキビとかテキパキは言われたことがあるが、プリプリなんて、エビじゃあるまいし失礼だ。

 だが、苛立ちは羞恥に変わった。ようやく津川の言わんとしていることが分かって、立ち上がったばかりの尻をもう一度椅子に落ち着けた。
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