とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
デートだと明言していたにも関わらず津川は告白もしない。手も繋がなかった。ただ隣で笑っていた。
美帆はもどかしさを感じたものの、何も言えなかった。津川がどうしたいのか分からなかった。
「そろそろ出よか」
夕方になった頃、津川が告げた。
乗りたかったアトラクションはほとんど堪能していた。美帆は頷いた。
駅のコインロッカーで預けていた荷物を受け取り、ホテルがある心斎橋へ向かった。
津川の知り合いが運営しているホテルは想像したほど大きくないが、十分立派な外観をしていた。
だが、意外にも価格はリーズナブルだ。事前に調べたが、思っていたよりかなり安かった。恐らく津川の配慮だろう。
エントランスから入り、津川は真っ直ぐロビーを進んで受付に向かった。
「予約した津川ですが」
津川とフロントマンのやりとりを少し後ろで聴きながら美帆はドキドキした。
部屋のことまで聞いていないが、一緒の部屋なのではないだろうかという疑念が湧いた。
流石にそれはないと思ったが、ありえない話ではない。
少しして、津川は振り返った。フロントマンからキーを受け取ったらしい。
「はい。これ杉野さんの部屋の鍵な」
津川はカードキーとパンフレットを手渡した。
美帆は頭に疑問符を浮かべた。当たり前だと思っていたものの、まさか別の部屋だと思わなかった。
────え? 本当に別の部屋なの?
だが、異論など言えるはずもない。そのまま階上へ行き、部屋の前に着いた。
「俺こっちの部屋やから。荷物置いたら飯食べに行こ。部屋の前で待ってて」
津川は何事もなかったかのように隣の部屋に入った。その様子を眺めながら美帆は自分のキーを眺めた。
なぜ自分はショックを受けているのだろうか。付き合ってもいない男女が同じ部屋で寝泊まりするわけがない。
だが、ちょっとは期待していた。津川とそうなることを。
────私の馬鹿。何破廉恥なこと考えてるの。
どうやら真っ当なのは津川の方だったらしい。これでは本当に尻軽だ。いや、相手が津川でなければこんな妄想しなかったが────。
食事はホテルの近くにあった店を予約していた。道頓堀川のすぐ横にある眺めのいいレストランだ。これも津川が選んでくれた店だった。
「素敵なお店ですね。川のすぐ近くなんて」
「観光のクルーズ船が通るからたまに雰囲気台無しになるけどな」
食事は楽しかった。さっきの驚きを忘れてしまうくらいに。
津川は本当になんとも思っていないようだ。美帆はなんだか拍子抜けしてしまった。
もしかして、津川が自分のことを好きだと思ったのも勘違いだったのだろうか。本当に旅行に誘っただけで、全然そんなつもりはなかったのかもしれない。
そう思うと、自分がこんなところにいることがとても不自然に思えてきた。
思わせぶりな態度はやめてと言えないのは津川のことが好きだからだ。曖昧な態度に甘えている。はっきり断られることを恐れている。こんなことを続けていてもお互い不幸になるだけなのに。
「……杉野さん」
「はい」
「今日、楽しかったか?」
津川はワイングラスを傾ける。感想の答えは「楽しかった」だ。だが、それを言うとこの関係も終わってしまうような気がした。
けれど逆らうことなどできない。美帆は泣きたくなる衝動を抑えて笑った。
「はい、とっても」
だが、その言葉を聞いた津川の表情は嬉しそうではない。浮かない顔のまま、またグラスに口をつけた。
津川はそうではなかったのだろうか。今日一日楽しくなかったのか。そんな馬鹿な。あんなに楽しそうに笑っていたのに。
津川は何か言いたそうにしていたが、結局店を出るまでそのことについて触れることはなかった。
ホテルに戻って、二人は部屋の前に着いた。
まだ時間は早いが、もう眠ってしまうのだろうか。
二軒目に行くことを予想していたが、津川は真っ直ぐホテルに戻ってきた。一日中歩いていたから疲れたのかもしれない。
「じゃあ、おやすみなさい」
津川から言われるのが怖くて自分から告げてしまう。慌ててキーを鞄から取り出して認証板にかざした。ピッとロックが解除される音がした。
「待って、杉野さん」
部屋に入ろうとした美帆を津川の声が引き止めた。美帆はゆっくりと振り返った。なんとなくそうしてくれることを願っていたような気もする。
「俺の部屋に来るか、自分の部屋に帰るか選んで」
やけに真剣な瞳が美帆を捉えた。