とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 ────今、なんて言った?

 美帆は混乱していた。誰か、レコーダーを持ってきて欲しい。津川は今なんと言ったのだろう。部屋に? 誰の? 俺の? 私の?

「あ、の……」

 想像していたはずなのに頭がついていけない。部屋が別々だと言われた時も混乱したのに、自分は一体どちらを望んでいたのか。

 いや、一緒にいたいと思っていた。だが、そんなこと素直に口にできるほど経験していないし人並みの羞恥心は持ち合わせている。

「……ごめん。勝手なこと言ってんな」

「え……」

「ちょっと頭冷やすわ。杉野さんは部屋で休んでて」

「あ……っ」

 津川は逃げるように部屋の中に入ってしまった。

 ────今のは何だったの?

 残された美帆は少しの間佇んだが、意味がないと気付いて自分も部屋の中に入った。

 隣の部屋に津川がいるからか、先程の言葉のせいか落ち着かない。こんなんじゃ眠ることもできない。

 部屋を別々に取ったのは津川だ。なのになぜあんなことを言ったのだろう。

 部屋に一人でいてもやることは限られている。美帆は津川から連絡が来るのを待つ間シャワーを浴びた。だが、バスルームから出てもスマホに津川からのメッセージはない。

 もしや寝てしまったのだろうか。流石にあのまま放置はない。もしかしたら、津川は待っているのかもしれない。

 行くか、行かないか。美帆は自分の心に尋ねた。

 部屋に行くことがどういうことかわかっている。何をされてもどうしようもない状況になるかもしれない。

 だが、このままどっちつかずなことをしていても何も変わらない。二人の関係を先に進めたいなら行動しなければ。

 着替えた後津川の部屋に向かった。部屋の前に佇み、深呼吸をする。

 ────ちゃんと言おう。ハッキリ自分の気持ちを伝えなきゃ。

 ドアホンを押した。美帆は緊張しながら津川が出てくるのを待った。

「……あれ?」

 だが、津川は一向に出てこない。もう少し待ってみようと一分ほど待ってみたが、やはり出てこなかった。

 もう一度ベルを鳴らす。しかし結果は同じだ。

 どうやら、津川は部屋にいないらしい。一体どこへ行ったのだろうか。

「頭冷やすって言ってたし、もしかして外に行ったのかな」

 このまま待っていても仕方ない。美帆は外に向かった。

 風呂上がりの少し濡れた体が夜風にさらされて少し冷たい。

 あたりを見回したが、津川らしき人物はいない。土曜の夜だからか、食事帰りの老若男女、海外からの観光客がたくさんいる。

 試しに電話をかけてみたが、津川は出ない。もしかしたらスマホを持っていないかもしれない。

 この時間帯なら商業施設に入ることはないだろう。店は既に閉まっている。なら呑みに出かけたか、コンビニ、ドラッグストアぐらいしかない。

 部屋で待っていようか。それか、このまま散策しようか。

 まるで逃げられたような気分だった。もしこのまま津川が帰って来なかったらどうしよう。自分とのデートが面白くなくて嫌気が差してしまったのだろうか。

「杉野さん?」

 ホテルの前で立ちすくんだ美帆は顔を上げた。津川が驚いた様子で立っていた。

「津川さん……」

「こんなところで何してんの。危ないやんか」

 こっちの台詞だ。津川がいないから外に出たというのに。

「津川さんが部屋にいなかったので、外にいるのかと思って……」

「……この辺は人が多いけど治安が悪いから、女の人が一人で夜中にうろつかん方がええよ。ホームレスとか怪しい連中もおるから」

「……ごめんなさい」

「いや……」

 津川は買い物していた様子ではない。本当に《《頭を冷やしていた》》だけなのかもしれない。

 さっきのことを聞こう。そう思っていたのに、津川を前にすると途端に言葉が出て来なくなる。

「ちょっと、散歩せえへん?」

 先に沈黙を破ったのは津川だ。美帆は顔を背けたまま、ぎこちなく頷いた。
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