とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 夜になるとこの辺りは暗くなるのか、昼間のような賑やかさも華やかさもなかった。川の中がどんよりと暗い。川沿いはほとんど人が歩いていなかった。美帆も一人だったら出歩かなかっただろう。

 津川は黙って歩いている。居心地の悪さに、美帆は耐えきれず声をあげた。

「今日、すごく楽しかったです。誘ってくださってありがとうございました」

 だが、津川の顔はやっぱり暗いままだ。まさかどこかで失敗してしまったのだろうか。

「……津川さんは、楽しくなかったですか……?」

「っそんなわけないやろ」

「だって、ずっと黙ってるから……」

「……せやな」

 津川はようやく足を止めた。美帆と目を合わせたが、どうも暗い。何か言いたそうだが、なんだか躊躇っているように見えた。

「……杉野さんは、なんで俺の誘いに乗ったん?」

「え……」

「変やと思ったやろ。俺ら別に付き合ってへんし」

 ────付き合ってない。当たり前のことなのに胸にズシンと響く。津川もそのことは分かっていたようだ。

 オーケーの返事をしたのは、津川が好きだったからだ。順序がおかしいのは百も承知で、この旅行で何かが変わることを期待していた。

「それは……」

「俺のこと、どう思ってんの」

 美帆はついカチンときた。さっきから、津川は聞いてばかりだ。自分がどうしたいのかちっとも言ってくれない。それがなんだか、選択を他人任せにしてるように思えて腹が立った。

「私がどうかじゃなくて、あなたがどうしたいのか教えてください。私は……津川さんと一緒にいたいから来たんです」

 ────言ってしまった。美帆は自分の顔が熱くなるのを感じた。

「……せやな。回りくどい真似しても意味ないわな」

 ボソリと呟くと津川の足が美帆の方へ向く。視界が暗くなって、代わりに大きなものが押し付けられるように近くにあった。

「紛らわしいことばっかりして男らしくなかったやろ」

「はい」、とも「いいえ」、とも答えられない。美帆はただ驚いて、息を吸い込むだけで精一杯だった。

 津川に抱きしめられている。体に当たっていた夜風が急に消えた。

「……気持ち悪かったら突き飛ばしたらええよ」

 弱気な発言の割に、津川の腕の力は強い。離す気なんてなさそうに思えた。

「ほんまは、回りくどいの好きじゃないねん。でも、どうしたらええか自分でも分からんかって……」

 それは自分とのことだろうか。津川にとってそれほど悩むことだったのだろうか。いや、それだけ真剣に考えていたということだ。

「私も……ごめんなさい。ちゃんと伝えなかったから、紛らわしいことしてたと、思います」

「それは、俺には興味ないってこと?」

「え、いえ……そうじゃ、なくて……」

 うまく言葉にならずしどろもどろしてしまう。津川は抱きしめていた腕を離し、真っ直ぐ美帆を見つめた。

「ハッキリ言うわ。俺、杉野さんのこと好きやねん」

 知っていた。だから、「知ってます」と美帆は言った。

 それ以上言葉が出なかった。嬉しいのに顔に出すとなんだか品がない気がして、舞い上がる気持ちを必死に押さえつけた。

「杉野さんは?」

 津川の顔がくっつきそうなほど近付く。

 美帆は驚いて後ろに下がろうとしたが、解かれたはずの腕がまた邪魔をしてくる。素直になるまで離さないと言わんばかりに。

 口付けられそうな位置でじっと見つめられて気がどうかしてしまいそうだ。返事を返すどころではない。そんなに近くに来たならキスしてくれればいいのにと思ったが、そんなことは言えない。

「あんまり遅いとキスするで」

「えっ」

「嘘。でも、ちゃんと教えて」

 あなたが好きです。と、小さな吐息にも似た言葉が吐き出される。

 一瞬、津川が笑うのが見えた。とても優しい笑顔だった。

 けれど《《待った》》をしたのが一瞬で、その笑顔はすぐに見えなくなってしまった。
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