とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 ホテルに戻り、再び部屋の前まで来た。自分の部屋に入ろうとした美帆を、津川が引き止める。

「……あのさ」

 やけに神妙な面持ち。美帆は《《わざと》》もたつかせていた手を止めた。

「俺の部屋、来おへん?」

 分かっていた。両思いになったのにわざわざ別れて寝る必要はない。

 津川が部屋を二つ取ったのは振られた時のことを考えていたのだろうか。そう思うと胸の奥がキュンと疼く。

 美帆も子供ではない。それがどういうことかぐらい分かっている。しかし同意ならなんの問題もないが、いいですよと答えるだけでも恥ずかしいものだ。

「……でも、こっちの部屋はどうしましょうか」

「別にええよ。もう代金払ったし」

「えっ」

「俺が勝手に決めたホテルやし。別にそんなに高くないから気にせんでええよ」

「そ……っそんなわけにはいきません。まだ何も使ってないのに勿体無いじゃないですか」

「じゃあアメニティー使い倒してやったらええんちゃう」

「そ、そんな……」

「そんなこと気にせんでええから、はよおいで」

 津川はさっさと部屋に入ってしまった。

 美帆は申し訳なく思ったが、乗りかかった船だ。今更自分の部屋で寝るとは言えない。

 慌てて荷物を取ってきて津川の部屋のインターホンを鳴らす。待ってたのか、扉はすぐに開いた。

「……お邪魔します」
 
 ただのホテルの部屋だというのに緊張する。津川の部屋は美帆の部屋と同じ作りだ。安心できる要素はそれぐらいだ。

「荷物、ここに置いてもいいですか」

「どこでも置いてええよ。俺風呂入るけど、杉野さん先使う?」

「あ、私はさっき入ったので大丈夫です」

 津川は着替えを持ってバスルームの方へ行った。美帆はようやく安心してベッドに腰を落ち着かせた。

 普段ならテレビでもつけて横になっているところだが、ここでそんなことは出来ない。なんだか手持ち無沙汰だ。

 バスルームから僅かに音が聞こえてくる。シャワーの音だ。

 値段はリーズナブルだが部屋の内装は綺麗だ。バスルームはガラス張りで隣がトイレなのが難点だが、人がいなければなんということはない。バスタブも広くて落ち着けたし、時間があれば朝風呂したい。

 メインの部屋の方は二人用にしてはやや狭めだが、値段から考えると安いし綺麗だから言うことはない。津川のセンスの良さが窺えた。

 少しすると津川が出てきた。どうやらシャワーだけ浴びたらしい。半乾きの頭に備え付けのガウンを着ている。

 似合っているのが腹立たしい。まるで津川のために用意されたみたいだ。

「杉野さんそのカッコで寝るん」

 津川は美帆にチラリと視線をやった。そういえば、自分は私服を着ていた。

 だが、着替えるとなんだか本格的に緊張してしまいそうだ。いや、津川の姿を見た時から緊張は最高潮に達していたが。

「……着替えてきます」

「着替えさせたろか?」

「け……っ結構です!」

 ニヤリと笑った津川を無視し、美帆はベッドの上に置かれていたガウンを鷲掴みしてバスルームにダッシュした。

 まだ蒸気が抜けきっていないバスルームはなんだかしっとりしている。先ほど自分が使ったシャンプーと同じ匂いが充満している。

 ────だめだめ! なにやらしい想像してるの!

 さっさとガウンに着替えたものの、パウダールームの鏡に映った自分を見たら現実を直視してしまう。

 だからと言っていつまでも引っ込んでいるわけにもいかなくて、仕方なく部屋に戻った。

 津川はベッドの縁に座っていた。何かメニュー表のようなものを見ている。

「津川さん? 何見てるんですか?」

「なんか頼む?」

「いえ……お腹減ったんですか?」

「いや? 杉野さんが気不味そうにしてるからなんか食べたら落ち着くかなと思って」

「な────」

 バレていたのか。いや、バレない方がおかしいか。

「どうしても嫌やったら戻ってもええよ。いきなりやし、断られてもしゃーないと思ってたから」

「でも、そしたら津川さんが一人になるじゃないですか」

「俺の心配してくれてんの」

 おいで、と津川が手招きする。美帆は招かれるまま津川の隣に座った。

 近い。握り拳二個分ぐらい間が空いているだけだ。こんなの、すぐになんとかしてしまえそうな距離だ。

「キス、してもええ?」

「ど……どうぞ、ご自由に」

 ひねくれた返事にクスッと笑う声が聞こえた。津川の唇が近付いて、ゆっくりと美帆の唇に触れた。

 頭の中はかっかしているのに唇の感触や吐息の音を聞くだけの冷静さはある。そして、いつになく津川らしくないと思った。

 津川なら勝手にやりそうなのにわざわざ断りをいれるところも、こんなに優しく触れることも、らしくない。だからこんなに緊張している。大切にされてるのかな、なんて思ってしまった。

 勝手にしてくれれば緊張する暇もないのに、こんなにゆっくり触れられたら頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。

 勢いに押されてそのまま体はベッドの上に倒れ込む。怒ったみたいな顔の津川がそこにいた。この雰囲気に似つかわしくないような顰めっ面だ。

 また近づいてきた唇は今度は美帆の首筋を辿った。堪らずため息を漏らすと、いつもより低い津川の声が聞こえた。

「……なんで、俺のこと好きになったん?」

「え……」

「俺のこと嫌いやったやろ」

 答える前にまた唇が触れる。吸い付くように降りた唇は肌けたガウンを緩やかに脱がせていく。自然な手つきは彼の女性関係が豊富であることを確信させた。

 想像して嫌な気持ちになったが、それは一瞬だった。美帆が堪え切れず声を漏らすと、また上から声が降ってきた。

「自分、ほんま可愛いなぁ」

 それは誉めているのか、いじわるを言っているのかどちらだろう。言われ慣れない言葉だからか、なんだかくすぐったい。

「か……からかわないでください」

「からかってへんよ。ほんまに可愛いって思ったから言っただけ」

 津川の指が胸の膨らみにそっと触れる。恥ずかしくて顔をそらすと、悪戯するみたいに指先でそこを弄んだ。

「あ……っ津川さん、駄目……」

「嫌」

「そんな、意地悪ばっかりしないでください」

「じゃあ、名前で呼んで。俺の名前、知ってるやろ」

 美帆、と。耳元に近付いた唇が囁いた。思わず体がゾクッと震えてしまった。

 催促するように耳に舌が差し込まれて、いやらしい水音を立てる。そんなことをされたら言いたくても言えない。

「文也……さん」

 美帆は観念して名前を呼んだ。

「文也でええよ」

 今更名前で呼び合うなんて、なんだか奇妙だ。

 やっと津川という名前に愛着が湧いてきたのに、しばらくまた名前を呼ぶのを躊躇う日々が続くのだろう。

 その夜、美帆は散々文也の名前を呼んだ。呼ばされたと言った方が正しいかもしれない、

 日付が変わる頃には、名前で呼ぶことに対する恥ずかしさなんてどこかへ消えていた。
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