とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 食事はうまくいった。楽しい感情は湧かなかったが、中村も緊張しているのだろう。

 食事をご馳走になったお礼にと、美帆は同僚達とよく行くバーに案内することにした。

(ファイブ)』は雑居ビルの二階にある店だ。一見バーがあるとは分からないが割と人気な店でいつ行っても賑やかだ。

 バーというと大人なしっぽりした雰囲気を楽しむ空間を思い浮かべるが、この店はそうではない。

 明るいウッドテイストな内装はマスターが自ら作ったというハワイアン仕様で、店内には観葉植物がジャングルのように飾り付けられている。壁際にずらりと並べられた酒瓶は後ろからライトアップされていて、なんだかイルミネーションでも見ている気分にさせた。

 美帆は比較的よくこの店に来ていた。中村も緊張せずに楽しんでくれると思った。

「意外ですね……杉野さんもこういうお店に来るんですか」

 カウンターに着くと中村はもの珍しそうに当たりを見回しながら言った。

「そうですか?」

「はい。もっと落ち着いた、その……大人な雰囲気の店に行くのかと思ってました」

 ────ってことは、この店は子供っぽくて落ち着いてないと。

 心に浮かんだ言葉を丸め込んで、美帆は精一杯笑顔を浮かべた。

「そんなことありませんよ。こういうお店にもよく来ます」

 こんな言葉にいちいちめくじらを立ててはいけない。意外性は美点だ。ギャップが好印象になることもある。
 
 その後は話も弾み、中村のことを色々聴くことができた。話題はほとんど沙織と沙織の旦那のこと、会社のことだったが、二人の共通点がそれしかないから仕方ないだろう。

 中村がお手洗いに行くと言って席を立った時だった。美帆は隣の席に男性が座っていたことに気が付いた。

 人が多い中その男性に目が留まったのは、男性がスーツを着ていたからだ。

 ここはどちらかと言えば若者向けの店で、カジュアルな服装をした人間が大半だ。だから男性のスーツ姿が浮いて見えた。

 勿論、美帆は会社帰りのコンサバファッションだし中村もスーツなので店からは浮いて見えるだろうが。

 ふと、男性と目が合った。美帆はつい癖で微笑み、会釈をした。

 こんなところで見ず知らずの男に声をかけたりするつもりはないが、美帆が好印象を残したいと思うぐらいに男の顔は綺麗だった。

 しかし綺麗な男の口から飛び出たのは予想もしない言葉だった。

「ここはお姉さんが男漁りしに来るような所ちゃうで」

 美帆は頭が真っ白になり、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 この男は一体何を言っているのだろう。今のは自分に言ったのだろうか。

 他に客はいるが、誰も彼もおしゃべりに夢中でこちらには気付いていない。

 しかし、美帆は接客のプロだ。聞き間違いであろうと、それが本当だろうと、《《笑顔を作る技術》》は一流だ。すぐに思考を立て直し、笑顔を浮かべた。

「すみません、今なんと仰ったのですか?」

「さっきの男、めっちゃ気不味そうやったやん。あんな真面目そうな男こんなところ連れてきても楽しめるわけないやろ」

 やはり間違いではなかったらしい。男は挑発的な瞳で美帆を見つめてきた。

 ────なんなの、この人。さっきからすごい失礼。

 百パーセント知り合いではない。この店にたまたま入った客だろうか。なぜ自分たちのデートに文句をつけるのか。

「あなた────」

「遅くなってすみません。トイレが混んでて」

 タイミングよく中村が戻ってきた。美帆は言葉を飲み込んで中村に笑顔を向けた。男が中村にまで変なことを吹き込むような気がしたのだ。

「中村さん、そろそろ行きませんか? もう遅いですし」

「え? あ、そうですね。じゃあ出ましょう」

 美帆は手早く会計をして店から出た。男の方は見なかった。あとからなんだか腹が立ってきて、うっかりすると笑顔が崩れそうになる。

 突然声をかけて来たと思ったらとんだ失礼男だ。関西弁だったから出張でこちらに来たのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。とにかくあの店から早く離れたかった。

 中村とは駅で分かれた。またご飯にいきましょうと言って、連絡することを約束した。悪くないデートだったはずだ。

 しかし美帆は浮かなかった。男に言われたことが気になっていた。

 中村はつまらなさそうにしていただろうか。確かに中村の雰囲気とは合わないかもしれない。自分の趣味を押し付けすぎたのか。しかしそれほど変わった店を選んだつもりもない。

 ぐるぐる思考が回って感情がごちゃごちゃだ。あの関西弁男のせいで全て台無しになっだ。
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