とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「ん……?」
ポケットに突っ込んでいた文也のスマホが震えた。どうやら電話らしい。鳴り続けるそれを取り出して画面を確認する。
「文也さん?」
画面をじっと眺めていた文也を見て、美帆は不思議そうな顔をした。
「……悪い。ちょっと仕事の電話やわ」
待ってて、と言って通話ボタンを押した。受話器の向こうから低い声が聞こえてきた。
『私だ』
短い挨拶。機嫌の悪そうな声。体に自然と力が入った。電話の主は父親だった。
「……なにか御用ですか?」
『例の件はどうなっている』
やはりそうだ。計画の話をしてからもうはや数ヶ月経った。進捗状況をなにも報告していなかったから気にしていたのだろう。
「いえ、探りを入れていますがまだ……」
『藤宮の社員と付き合っているんだろう』
「────!?」
文也は思わず周囲を見回した。
まさか、見張りを付けられたのだろうか。あり得る。あの父親ならそれぐらいわけないことだ。一体いつからだ? まさか最初からずっと観察していたのではないだろうか────。
慌てる文也を見て美帆が首を傾げる。
内心焦っていたが、表に出せない。至極冷静を装い、答えた。
「ええ、そうです。計画にちょうどよかったので」
『いい手駒がいるなら早く聞き出すことだ。そんな悠長にしてられるほど仕事は甘くないぞ』
────手駒。
怒りにも似た感情が湧き上がる。だが、言葉通りだ。
父親にとって周囲にいる人間は手駒も同然だ。家族ですらそうだ。美帆のことだってそう思うだろう。
だが、嘘でもそんな言葉を使うことに腹が立った。いや、嘘なのだろうか。美帆と自分は確かに好きあっている。だが、この関係は嘘も同然だ。
美帆は元々この計画のために近づいた人物なのだから。
『お前の会社でもなんでも使ってこちらに情報を寄越すんだ。お前の兄はすでに会社の────」
やかましいお小言をやり過ごしながら虚しさが込み上げる。
────結局俺も、手駒の一つか。
文也はなんだか自分が情けなくなった。こんなことをして意味はあるのだろうか。ただ父親に従って、ロボットのように感情を殺しながら生きるなんて。
けれどこの相手には通用しないことだ。どんな言葉も。
「……なるべく早く聞き出せるよう努力します」
『定期的に報告しろ。お前は放っておくとすぐに逃げ出す癖があるからな』
電話は一方的に切られた。無言のまま電話の履歴から《《それ》》を削除し、待たせていた美帆に笑い掛ける。
「ごめんな。デート中に長電話して」
「大丈夫なんですか? なんだか大変そうでしたけど……」
「大丈夫。ちょっとややこしい取引先やねん。なんとかなるから」
「無理しないでくださいね」
美帆は心配そうに見つめた。その目を見るとなんだか泣きたくなった。
色んなことが嫌だった。父親の言いなりになっていることも、やりたいことが出来ないことも、美帆を騙していることも、これから騙すことになることも。
全てが終わったらこの手は離れるのだろうか。今心配そうに見つめている表情も、悲しんだり、怒ったりするだろうか。
自分は会社を守らなければならない。苦労して作った会社だ。あんな父親に渡したくなかった。
けれどそのためには────。
「美帆は……今の会社でずっと働きたいん?」
「え?」
「いや、ようあるやろ。キャリアアップしたいから転職するとか、自分で会社興すとか」
「そうですね……できるなら今の会社にずっといたいです。受付嬢のみんなも秘書課のみんなもいい人ばかりだし、こんな恵まれた職場なかなかないですから」
「そうか……」
見る限り、美帆は楽しそうに仕事している。色々言われることもあるようだが、それでも今まで続けてきたのは彼女が仕事に誇りを持っているからだ。美帆にとってあの会社で仕事することは意味があることなのだ。
だが、それを知ってどうするつもりだ? 分かっていたことだ。美帆に会社の情報でも聞くつもりだったのか? そんなこと、彼女が言うはずない。
「文也さんは、今の会社をもっと大きくしたい、とかですか?」
「せやな……」
「……大丈夫ですか? なんだか暗いですけど……」
「そんなことないって」
「そんなことありますよ。文也さんも意外と素直じゃないんですね」
美帆は少しむすっとした顔で上目遣いに見つめた。
できるだけ深刻そうな顔をせず、笑ってみせたつもりだった。だが、あまり隠せていなかったらしい。
「大丈夫です。文也さん今までたくさん頑張ったじゃないですか。きっとなんとかなりますよ」
美帆はきっと、先程の電話のことで文也が落ち込んでいると思ったのだろう。ややこしい取引先のせいで落ち込んでいると。
────聞けるわけないやん。美帆に……。
もし仮に、美帆に本当のことを話したら彼女はどうするだろうか。気の毒に思って会社の情報を教えてくれるだろうか。
そうかもしれない。美帆は優しいから、本当に困っているふりをすれば教えてくれるかもしれない。
だが、聞けなかった。
会社の情報を教えれば少なからず美帆も被害を受けることになるだろう。咎められることになるかもしれない。仮に会社にバレたらよくて降格、最悪解雇だ。
今の会社でずっと働きたいと言っている彼女にそんな真似はさせられない。
だが、このままでは自分の会社が────。
一体どうすればいいのだろう。どうすれば誰も傷付かずに済むのだろう。
ポケットに突っ込んでいた文也のスマホが震えた。どうやら電話らしい。鳴り続けるそれを取り出して画面を確認する。
「文也さん?」
画面をじっと眺めていた文也を見て、美帆は不思議そうな顔をした。
「……悪い。ちょっと仕事の電話やわ」
待ってて、と言って通話ボタンを押した。受話器の向こうから低い声が聞こえてきた。
『私だ』
短い挨拶。機嫌の悪そうな声。体に自然と力が入った。電話の主は父親だった。
「……なにか御用ですか?」
『例の件はどうなっている』
やはりそうだ。計画の話をしてからもうはや数ヶ月経った。進捗状況をなにも報告していなかったから気にしていたのだろう。
「いえ、探りを入れていますがまだ……」
『藤宮の社員と付き合っているんだろう』
「────!?」
文也は思わず周囲を見回した。
まさか、見張りを付けられたのだろうか。あり得る。あの父親ならそれぐらいわけないことだ。一体いつからだ? まさか最初からずっと観察していたのではないだろうか────。
慌てる文也を見て美帆が首を傾げる。
内心焦っていたが、表に出せない。至極冷静を装い、答えた。
「ええ、そうです。計画にちょうどよかったので」
『いい手駒がいるなら早く聞き出すことだ。そんな悠長にしてられるほど仕事は甘くないぞ』
────手駒。
怒りにも似た感情が湧き上がる。だが、言葉通りだ。
父親にとって周囲にいる人間は手駒も同然だ。家族ですらそうだ。美帆のことだってそう思うだろう。
だが、嘘でもそんな言葉を使うことに腹が立った。いや、嘘なのだろうか。美帆と自分は確かに好きあっている。だが、この関係は嘘も同然だ。
美帆は元々この計画のために近づいた人物なのだから。
『お前の会社でもなんでも使ってこちらに情報を寄越すんだ。お前の兄はすでに会社の────」
やかましいお小言をやり過ごしながら虚しさが込み上げる。
────結局俺も、手駒の一つか。
文也はなんだか自分が情けなくなった。こんなことをして意味はあるのだろうか。ただ父親に従って、ロボットのように感情を殺しながら生きるなんて。
けれどこの相手には通用しないことだ。どんな言葉も。
「……なるべく早く聞き出せるよう努力します」
『定期的に報告しろ。お前は放っておくとすぐに逃げ出す癖があるからな』
電話は一方的に切られた。無言のまま電話の履歴から《《それ》》を削除し、待たせていた美帆に笑い掛ける。
「ごめんな。デート中に長電話して」
「大丈夫なんですか? なんだか大変そうでしたけど……」
「大丈夫。ちょっとややこしい取引先やねん。なんとかなるから」
「無理しないでくださいね」
美帆は心配そうに見つめた。その目を見るとなんだか泣きたくなった。
色んなことが嫌だった。父親の言いなりになっていることも、やりたいことが出来ないことも、美帆を騙していることも、これから騙すことになることも。
全てが終わったらこの手は離れるのだろうか。今心配そうに見つめている表情も、悲しんだり、怒ったりするだろうか。
自分は会社を守らなければならない。苦労して作った会社だ。あんな父親に渡したくなかった。
けれどそのためには────。
「美帆は……今の会社でずっと働きたいん?」
「え?」
「いや、ようあるやろ。キャリアアップしたいから転職するとか、自分で会社興すとか」
「そうですね……できるなら今の会社にずっといたいです。受付嬢のみんなも秘書課のみんなもいい人ばかりだし、こんな恵まれた職場なかなかないですから」
「そうか……」
見る限り、美帆は楽しそうに仕事している。色々言われることもあるようだが、それでも今まで続けてきたのは彼女が仕事に誇りを持っているからだ。美帆にとってあの会社で仕事することは意味があることなのだ。
だが、それを知ってどうするつもりだ? 分かっていたことだ。美帆に会社の情報でも聞くつもりだったのか? そんなこと、彼女が言うはずない。
「文也さんは、今の会社をもっと大きくしたい、とかですか?」
「せやな……」
「……大丈夫ですか? なんだか暗いですけど……」
「そんなことないって」
「そんなことありますよ。文也さんも意外と素直じゃないんですね」
美帆は少しむすっとした顔で上目遣いに見つめた。
できるだけ深刻そうな顔をせず、笑ってみせたつもりだった。だが、あまり隠せていなかったらしい。
「大丈夫です。文也さん今までたくさん頑張ったじゃないですか。きっとなんとかなりますよ」
美帆はきっと、先程の電話のことで文也が落ち込んでいると思ったのだろう。ややこしい取引先のせいで落ち込んでいると。
────聞けるわけないやん。美帆に……。
もし仮に、美帆に本当のことを話したら彼女はどうするだろうか。気の毒に思って会社の情報を教えてくれるだろうか。
そうかもしれない。美帆は優しいから、本当に困っているふりをすれば教えてくれるかもしれない。
だが、聞けなかった。
会社の情報を教えれば少なからず美帆も被害を受けることになるだろう。咎められることになるかもしれない。仮に会社にバレたらよくて降格、最悪解雇だ。
今の会社でずっと働きたいと言っている彼女にそんな真似はさせられない。
だが、このままでは自分の会社が────。
一体どうすればいいのだろう。どうすれば誰も傷付かずに済むのだろう。