とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
「同じ服で会社に行けないから」と、美帆は自宅へ帰った。これ以上一緒にいたら色んなものをぶちまけてしまいそうだった。
結局最後まで、文也は滝川のことを言わなかった。
終始何か言いたそうにしていたが、それが滝川のことかどうかは分からない。ただ、どちらでも同じだ。
何か隠されている────。そう思うと、美帆はとてつもなく悲しくなった。
嫌な夢を見て目を覚ました。スマホの時計を確認すると起床時刻より一時間ほど早かった。
もう一度寝ようと思ったが、なんだか眠れない。
あれからしばらく経った。文也は忙しいのか連絡が減った。忙しいのは前からだが、ここ最近は輪をかけてそう思えた。
連絡が減って不安に思う気持ちはあったが、だからと言って追求することなどできない。大人ぶって運命に任せるなんて考えてみたが、すぐに降参した。
核心に触れることが怖くて連絡できずにいたら、いつの間にか時間が経っていた。
いつもより早いが、このまま寝ていても嫌な気分なだけだ。美帆は
テレビのリモコンのスイッチを押した。テレビの画面にニュースが映る。
一人でいるとつい悪いことを考えがちだ。人の声があった方が幾分か気分はマシだった。
ぼんやり朝の時間を過ごして、いつものように出勤する。同じように出勤する社員達を横目に見ながら美帆は自然と文也を探していた。
「滝川」としての文也も最近は見ていない。仕事が忙しいから来れないのだろうか。
同一人物なのに、滝川とならまだ話せるかもしれないなどと思っていた。真実を突き止めたのに、まだ心のどこかで信じようとしている自分がいる。
秘書課の部屋に入ると、胡桃坂がいた。
「杉野さん、おはようございます」
「おはよう」
「社長から伝言なんですけど、トラブルがあったらしくて出社するのが午後になるそうです。常務も一緒です」
「トラブル? 何かあったの?」
「いや、内容までは……随分慌てていたので。心配しないでとは言ってましたけど、大丈夫ですかね……」
「うーん……常務もいるなら大丈夫だとは思うけど、心配ね……」
気掛かりだが、すでに対応しているのなら任せるしかない。美帆は自分の仕事に集中することにした。
午前の業務を終え、昼休憩から戻ってくると朝はいなかったはずの青葉が出社していた。
美帆はえ? と首を傾げた。
「青葉さん。今日はお休みじゃないですか?」
「急遽出社することになったんです。杉野さん、ちょっといいですか。お話ししたいことがあるので」
青葉の表情はいつもより真面目で、真剣そうだった。これはただごとではなさそうだ。
青葉に連れられて社長室に入ると、そこには社長と常務がいた。美帆が休憩している間に戻ってきたいたらしい。
「お疲れ様です」
いつものように挨拶するが、二人の表情は青葉と同じように深刻だった。美帆はいつになく緊張した。
一体何かあったのだろうか。この二人がこんなに険しい顔をしているところを見るのは初めてだった。
「あの……何かあったんですか」
美帆は堪らず尋ねた。社長と常務、青葉は顔を見合わせる。やがて少しして、社長が口を開いた。
「……実は、うちのネットワークサーバーで問題が起きてね。一応すぐに対応したから情報流出とかウイルスでデータが壊れたとかそういうことはなかったんだけど、そのサーバーの一部は外注で管理してもらってたから、色々手間取ったの」
「大丈夫だったんですか」
「ええ……一応はね」
大丈夫と言ったものの、社長の顔は浮かない。なんだか気不味そうに美帆を見つめていた。
四人の沈黙を割るように常務が声を発した。
「そのサーバーの管理をしてたのは津川フロンティアだ」
突然その名前を聞いて美帆は目を見開いた。まさかこんなところでその名前が出るとは思わなかった。
「杉野さん、津川フロンティアの社長さんとお付き合いされてるって聞いたんだけど」
「え……?」
「ごめんなさいね。疑うつもりじゃないんだけど、一応聞いておきたいの。杉野さん、前に津川フロンティアのこと言っていたでしょう。何か知ってない?」
美帆はようやくそこで気が付いた。
────え? もしかして、私疑われてるの?
色んなことが突然すぎて頭がついていかない。一体どういうことだろうか。
津川フロンティアが管理しているサーバーで問題が起こり、社長達がその処理に追われていた。わざわざ社長が動くぐらいだからちょっとしたトラブル、程度のことではないのだろう。
社長はオブラートに包んで手間取ったとしか言わなかったが、それぐらいのことではないはずだ。
だが、なぜ突然自分と文也が交際している話しが出てくるのか。
文也とは受付にいた時何度も会っていた。社員食堂で一緒に食事したこともある。会社の前で待ち合わせしたこともある。付き合ったのはそれよりずっと後だが、それを見て勘違いした社員がいてもおかしくない。
だが、なぜ自分が文也から何か聞いていることになるのだろう。まさか、自分が情報を流して問題が起きたとでもいうのだろうか。
「し────知りません! そんなこと、初めて聞きました」
「そこの社長と連絡がつかなくてな。それで聞いたんだ」
「え……!?」
美帆は最近文也から連絡があった日を思い出した。確か、二日ほど前だ。忙しかったのかメッセージの返信しかなかった。
その時は忙しいのだろうと片付けたが、もしかして、その時文也は────。すうっと血の気が引いていく。
ここ最近、いや、少し前から文也の態度が変だった。
何か悩んでいるようだった。それが仕事のことなのか、自分とのことなのかは分からない。
そして、自分についた嘘。そして、今社長達に言われたこと。その全てがつながっているような気がした。
「本当に何も聞いてない?」
「……何も、知りません」
何も聞いていない。何も知らない。
頭の中で一つのパズルが組み立てられる。意味不明で理解できなかった最初の頃の文也の発言が、今更ここで理解できたような気がした。
不意にノックの音が鳴った。社長が返事する前に、扉は間髪入れずに開いた。
美帆は小さく振り返った。だが、そこに立っていた人物を見て目を疑った。
「どうも、津川文也です」
文也は社長室の中に堂々と入り、挨拶した。だが、いつものように飄々としているようでどこか刺々しい雰囲気だ。
文也は美帆に一瞥もくれることなく社長と美帆の間に立った。
「うちの作ったシステムが迷惑をかけたそうで、申し訳ありませんでした」
「そんな簡単な謝罪で済むようなことではなかったと思いますが」
珍しく青葉が怒っていた。普段優しい青葉が怒ると、なんだか凄まれているように感じてしまう。
だが、文也の態度は変わらない。取引先の社長室に乗り込んだとは思えないような太々しさだ。
「社長さん、あんたんところの社員、ちゃんとしてますよ。ま、俺にとっちゃなんの役にも立ちませんでしたけど」
文也は不意に美帆に視線を向けた。だが、その瞳は冷たい。出会った時の文也みたいだった。
「ごめんなぁ、杉野サン。最初っから利用さしてもらっててん」
「え……?」
「俺が欲しかったのは藤宮のデータ。それだけやねん」
「どういうことだ?」
常務の低い声音が部屋に響く。だが、文也は常務に視線を向けたもののすぐに逸らした。その瞳はもう一度美帆に向けられた。
「アンタが一番落としやすそうやと思って近付いてんけど、予想外やったわ。こっちは情報聞き出せると思って色々やってんのに全然喋らへんし、堅すぎて全然おもんなかったわ。骨折り損のくたびれもうけ」
美帆は理解が追いつかず放心した。文也の言葉を飲み込むのにどれぐらいかかっただろう。
ただ目の前にある冷たい顔が、冷たい言葉を放っている。あの時自分を優しい目で見つめていた顔が、まるで蔑むみたいに見下している。
声が出なかった。
「ってことで、お疲れさん」
社長と文也が何か喋っている。常務も、青葉も、何か喋っている。
だが、耳に入ってこなかった。なんだか空気みたいに全てが通り過ぎてく。
────嘘だよね……?
心の中で呟く。
いつもの自分なら怒っただろう。頬の一つでも叩いて、なじって。ふざけないでと一喝した。
でも、とてもそんな気にはなれなかった。ただその言葉が悲しくて、頭の中で受け止めるのに必死だった。
ようやく理解した。文也が自分に近づいた本当の理由を。滝川という人間になりすまして自分に近付いた理由を。
それは、恋などではなかった。
結局最後まで、文也は滝川のことを言わなかった。
終始何か言いたそうにしていたが、それが滝川のことかどうかは分からない。ただ、どちらでも同じだ。
何か隠されている────。そう思うと、美帆はとてつもなく悲しくなった。
嫌な夢を見て目を覚ました。スマホの時計を確認すると起床時刻より一時間ほど早かった。
もう一度寝ようと思ったが、なんだか眠れない。
あれからしばらく経った。文也は忙しいのか連絡が減った。忙しいのは前からだが、ここ最近は輪をかけてそう思えた。
連絡が減って不安に思う気持ちはあったが、だからと言って追求することなどできない。大人ぶって運命に任せるなんて考えてみたが、すぐに降参した。
核心に触れることが怖くて連絡できずにいたら、いつの間にか時間が経っていた。
いつもより早いが、このまま寝ていても嫌な気分なだけだ。美帆は
テレビのリモコンのスイッチを押した。テレビの画面にニュースが映る。
一人でいるとつい悪いことを考えがちだ。人の声があった方が幾分か気分はマシだった。
ぼんやり朝の時間を過ごして、いつものように出勤する。同じように出勤する社員達を横目に見ながら美帆は自然と文也を探していた。
「滝川」としての文也も最近は見ていない。仕事が忙しいから来れないのだろうか。
同一人物なのに、滝川とならまだ話せるかもしれないなどと思っていた。真実を突き止めたのに、まだ心のどこかで信じようとしている自分がいる。
秘書課の部屋に入ると、胡桃坂がいた。
「杉野さん、おはようございます」
「おはよう」
「社長から伝言なんですけど、トラブルがあったらしくて出社するのが午後になるそうです。常務も一緒です」
「トラブル? 何かあったの?」
「いや、内容までは……随分慌てていたので。心配しないでとは言ってましたけど、大丈夫ですかね……」
「うーん……常務もいるなら大丈夫だとは思うけど、心配ね……」
気掛かりだが、すでに対応しているのなら任せるしかない。美帆は自分の仕事に集中することにした。
午前の業務を終え、昼休憩から戻ってくると朝はいなかったはずの青葉が出社していた。
美帆はえ? と首を傾げた。
「青葉さん。今日はお休みじゃないですか?」
「急遽出社することになったんです。杉野さん、ちょっといいですか。お話ししたいことがあるので」
青葉の表情はいつもより真面目で、真剣そうだった。これはただごとではなさそうだ。
青葉に連れられて社長室に入ると、そこには社長と常務がいた。美帆が休憩している間に戻ってきたいたらしい。
「お疲れ様です」
いつものように挨拶するが、二人の表情は青葉と同じように深刻だった。美帆はいつになく緊張した。
一体何かあったのだろうか。この二人がこんなに険しい顔をしているところを見るのは初めてだった。
「あの……何かあったんですか」
美帆は堪らず尋ねた。社長と常務、青葉は顔を見合わせる。やがて少しして、社長が口を開いた。
「……実は、うちのネットワークサーバーで問題が起きてね。一応すぐに対応したから情報流出とかウイルスでデータが壊れたとかそういうことはなかったんだけど、そのサーバーの一部は外注で管理してもらってたから、色々手間取ったの」
「大丈夫だったんですか」
「ええ……一応はね」
大丈夫と言ったものの、社長の顔は浮かない。なんだか気不味そうに美帆を見つめていた。
四人の沈黙を割るように常務が声を発した。
「そのサーバーの管理をしてたのは津川フロンティアだ」
突然その名前を聞いて美帆は目を見開いた。まさかこんなところでその名前が出るとは思わなかった。
「杉野さん、津川フロンティアの社長さんとお付き合いされてるって聞いたんだけど」
「え……?」
「ごめんなさいね。疑うつもりじゃないんだけど、一応聞いておきたいの。杉野さん、前に津川フロンティアのこと言っていたでしょう。何か知ってない?」
美帆はようやくそこで気が付いた。
────え? もしかして、私疑われてるの?
色んなことが突然すぎて頭がついていかない。一体どういうことだろうか。
津川フロンティアが管理しているサーバーで問題が起こり、社長達がその処理に追われていた。わざわざ社長が動くぐらいだからちょっとしたトラブル、程度のことではないのだろう。
社長はオブラートに包んで手間取ったとしか言わなかったが、それぐらいのことではないはずだ。
だが、なぜ突然自分と文也が交際している話しが出てくるのか。
文也とは受付にいた時何度も会っていた。社員食堂で一緒に食事したこともある。会社の前で待ち合わせしたこともある。付き合ったのはそれよりずっと後だが、それを見て勘違いした社員がいてもおかしくない。
だが、なぜ自分が文也から何か聞いていることになるのだろう。まさか、自分が情報を流して問題が起きたとでもいうのだろうか。
「し────知りません! そんなこと、初めて聞きました」
「そこの社長と連絡がつかなくてな。それで聞いたんだ」
「え……!?」
美帆は最近文也から連絡があった日を思い出した。確か、二日ほど前だ。忙しかったのかメッセージの返信しかなかった。
その時は忙しいのだろうと片付けたが、もしかして、その時文也は────。すうっと血の気が引いていく。
ここ最近、いや、少し前から文也の態度が変だった。
何か悩んでいるようだった。それが仕事のことなのか、自分とのことなのかは分からない。
そして、自分についた嘘。そして、今社長達に言われたこと。その全てがつながっているような気がした。
「本当に何も聞いてない?」
「……何も、知りません」
何も聞いていない。何も知らない。
頭の中で一つのパズルが組み立てられる。意味不明で理解できなかった最初の頃の文也の発言が、今更ここで理解できたような気がした。
不意にノックの音が鳴った。社長が返事する前に、扉は間髪入れずに開いた。
美帆は小さく振り返った。だが、そこに立っていた人物を見て目を疑った。
「どうも、津川文也です」
文也は社長室の中に堂々と入り、挨拶した。だが、いつものように飄々としているようでどこか刺々しい雰囲気だ。
文也は美帆に一瞥もくれることなく社長と美帆の間に立った。
「うちの作ったシステムが迷惑をかけたそうで、申し訳ありませんでした」
「そんな簡単な謝罪で済むようなことではなかったと思いますが」
珍しく青葉が怒っていた。普段優しい青葉が怒ると、なんだか凄まれているように感じてしまう。
だが、文也の態度は変わらない。取引先の社長室に乗り込んだとは思えないような太々しさだ。
「社長さん、あんたんところの社員、ちゃんとしてますよ。ま、俺にとっちゃなんの役にも立ちませんでしたけど」
文也は不意に美帆に視線を向けた。だが、その瞳は冷たい。出会った時の文也みたいだった。
「ごめんなぁ、杉野サン。最初っから利用さしてもらっててん」
「え……?」
「俺が欲しかったのは藤宮のデータ。それだけやねん」
「どういうことだ?」
常務の低い声音が部屋に響く。だが、文也は常務に視線を向けたもののすぐに逸らした。その瞳はもう一度美帆に向けられた。
「アンタが一番落としやすそうやと思って近付いてんけど、予想外やったわ。こっちは情報聞き出せると思って色々やってんのに全然喋らへんし、堅すぎて全然おもんなかったわ。骨折り損のくたびれもうけ」
美帆は理解が追いつかず放心した。文也の言葉を飲み込むのにどれぐらいかかっただろう。
ただ目の前にある冷たい顔が、冷たい言葉を放っている。あの時自分を優しい目で見つめていた顔が、まるで蔑むみたいに見下している。
声が出なかった。
「ってことで、お疲れさん」
社長と文也が何か喋っている。常務も、青葉も、何か喋っている。
だが、耳に入ってこなかった。なんだか空気みたいに全てが通り過ぎてく。
────嘘だよね……?
心の中で呟く。
いつもの自分なら怒っただろう。頬の一つでも叩いて、なじって。ふざけないでと一喝した。
でも、とてもそんな気にはなれなかった。ただその言葉が悲しくて、頭の中で受け止めるのに必死だった。
ようやく理解した。文也が自分に近づいた本当の理由を。滝川という人間になりすまして自分に近付いた理由を。
それは、恋などではなかった。