とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第19話 愛しい嘘
世の中には、「ついていい嘘」と「ついてはいけない嘘」がある。
しかし、ついていい嘘だからといって、それが正しいとは限らない。
────アホやんなあ。なんでこんな言い方しかできへんのやろ。
戸惑いから絶望に変わる瞳を見つめながら、文也は崩れそうになる表情筋を必死で保った。
あまりにも予想外の事態なのだろう。美帆は戸惑っていた。気の強い彼女が何も言えずにいる。それが一目で傷付いていると分かるのに何も言えなかった。
だが、これは文也にとっても予想外の事態だった。
事の発端は数日前だ。管理していた藤宮コーポレーションのネットワークサーバーで不具合が起こった。
それは藤宮コーポレーションの本社だけでなく、藤宮の紹介で契約していた藤宮傘下の企業にも及んだ。
サーバー障害は稀に起こることがある。システムに問題が起こったり、機械の故障だったり、理由は様々だ。
だが、今回の不具合は原因がシステムに特定出来なかった。
サーバーの管理は色々要求されることが多いが、セキュリティ対策に関しては何よりも重んじている。第一に優先すべき事項だ。余程のことがなければ不具合なんてあり得ないはずだった。
その《《余程》》が今回の事件だった。
津川フロンティアが作ったネットワークに外部から何者かが侵入し、データを盗んだり情報を改竄したりする────いわゆるサイバー攻撃というやつだ。
あまりニュースにはなっていないが、珍しいことではない。大手金融機関や企業でも頻繁に起こっていることだ。
だが、津川フロンティアはネットワークサービスを提供する会社だ。そのようなことが起こらないように対策は取っていた。
ではなぜこのようなことが起こったのか。文也は心当たりがあった。
父親だ。それ以外に考えられなかった。
あれから何度か催促の連絡があったが、文也はその度に誤魔化していた。それで痺れを切らしてこういった手段に出たのだろう。肌黒い狐の考えることなど知れている。
しかし、文也は予想出来なかった。《《父親が自分を捨て駒にした》》などと、どこの子供が考えるだろう。結果はそう物語っているが、確信に至ったのは事態がある程度収まってからだった。
ことが起こってすぐ、社員から報告を受け、事態の収集で走り回ることになった。
考えたくないが、社内に父親の回し者がいたようだ。でなければこんな不具合が起こるはずがない。
そして最悪なのが、ネットワークサーバーに侵入した際に使われていたのが美帆の社員IDとパスワードだった。
恐らくこれもどこかから侵入した際に手に入れたのだろう。これが知られたら美帆が疑われるのは目に見えている。
なぜこんな回りくどい真似をしたのか。文也と美帆が付き合っていることを知っていたからだ。全ての責任を美帆に押し付ける気なのだ。
文也はすぐに藤宮コーポレーションに向かった。美帆が糾弾されていると思うといても立ってもいられなかった。
────俺と付き合ったから、こんなことになったんや。
失礼千万なのは承知で社長室に直接向かった。いるかどうかも分からないが、美帆はいるはずだ。
社長室の前に着くと、中から切羽詰まった声が聞こえてきた。美帆の声だった。
『し────知りません! そんなこと、初めて聞きました』
思った通り、中でその話がされていた。
美帆は戸惑っていた。当然だ。何も話していないのだから。こんなことが起こるなど予想していなかったに違いない。
美帆が疑われていると分かって無視は出来なかった。
ノックをして返事も待たず中に入る。刺すような視線が文也に向けられた。
「どうも、津川文也です」
社長に常務、おまけに青葉秘書までいる。この会社のスリートップだ。三人は厳しい視線を向けて来た。無断で押し入ったのだから当然かもしれない。
こんな三人に囲まれてよく仕事できるな、と文也は思った。もっとも、今は不測の事態で気が立っているのだろう。
文也は美帆には視線を向けず、社長と美帆の間に立った。
「うちの作ったシステムが迷惑をかけたそうで、申し訳ありませんでした」
「そんな簡単な謝罪で済むようなことではなかったと思いますが」
青葉秘書は刺々しい言葉で嗜めた。こんなところで嫉妬していた対象と話すなんて滑稽だ。だが、怒られて凹んでいるような歳でもない。
三人は美帆が自分の社員用IDとパスワードを使ってサーバーに侵入させる手引きをしたと思っているはずだ。その疑いを解消するためにはどうすればいいか?
文也はすぐに判断を下した。
「社長さん、あんたんところの社員、ちゃんとしてますよ。ま、俺にとっちゃなんの役にも立ちませんでしたけど」
この場には不釣り合いな笑みを浮かべ、あえて無礼な物言いをした。文也は美帆に視線を向けた。
ようやく見た美帆は戸惑っているようだった。まだ事態が飲み込めていないのだろう。そんな彼女に心にもないことを投げかけた。
「ごめんなぁ、杉野サン。最初っから利用さしてもらっててん」
「え……?」
「俺が欲しかったのは藤宮のデータ。それだけやねん」
元々の計画だ。杉野美帆に近付き、藤宮内部の情報を手に入れる。結果は成功だ。あの父親は自分を出し抜き、美帆の社員IDを使って内部の情報を抜き取った。
美帆に罪をなすりつけることで逃れるつもりだったのだろう。そうすれば津川フロンティアの罪は軽くなるのだから。
────俺が美帆に近付かんかったら、こんなことにはならへんかったのに。
頭の軽い女だったら騙しても良心は痛まないと思った。そう思って美帆に近付いた。本当の美帆がどんな女性かも知らずに。
目の前で美帆が泣きそうな顔をしている。なのにどうして自分は笑っているのだろうか────。
「アンタが一番落としやすそうやと思って近付いてんけど、予想外やったわ。こっちは情報聞き出せると思って色々やってんのに全然喋らへんし、堅すぎて全然おもんなかったわ。骨折り損のくたびれもうけ」
ここまでご丁寧に説明したのだから、この三人だって分かるはずだ。《《美帆は騙されたのだ》》、と。
事実、美帆は何一つとして喋っていない。当たり障りない内容は話したが、彼女はなにも言わなかった。
そして、自分も聞けなかった。結局、聞けなかったのだ。
聞こうと思ったこともあった。聞きかけたこともあった。けれどその度胸が痛んで、実行には踏み切れない。
ただ生ぬるい風呂にダラダラ浸かるような時間を過ごし、愛情に溺れ、普通であることを願った。
美帆との時間は楽しかった。
けれどそれも終わりだ。これ以上美帆といることは出来ない。
目の前で潤む瞳が告げる。「どうして」と。「嘘だったの?」と。泣かせたことなんてなかったのに、初めて彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
────嘘なわけないやん。お前のこと、どんだけ好きやったか。
この後の展開は見えている。会社は契約を切られるだろう。あの父親からしこたま怒鳴られて、家の恥だと言われる。そして、美帆はいない。
文也は思った。「津川文也」ではなく、「滝川文太」の方がいい人生を送れたかもしれない、と。
そうすればこんなふうに人を傷付けることもなかったし、仕事だって普通に出来た。笑い合いたい人間と、話したいことを話せただろう。
────あかんねんな。俺みたいなんじゃ……。
しかし、ついていい嘘だからといって、それが正しいとは限らない。
────アホやんなあ。なんでこんな言い方しかできへんのやろ。
戸惑いから絶望に変わる瞳を見つめながら、文也は崩れそうになる表情筋を必死で保った。
あまりにも予想外の事態なのだろう。美帆は戸惑っていた。気の強い彼女が何も言えずにいる。それが一目で傷付いていると分かるのに何も言えなかった。
だが、これは文也にとっても予想外の事態だった。
事の発端は数日前だ。管理していた藤宮コーポレーションのネットワークサーバーで不具合が起こった。
それは藤宮コーポレーションの本社だけでなく、藤宮の紹介で契約していた藤宮傘下の企業にも及んだ。
サーバー障害は稀に起こることがある。システムに問題が起こったり、機械の故障だったり、理由は様々だ。
だが、今回の不具合は原因がシステムに特定出来なかった。
サーバーの管理は色々要求されることが多いが、セキュリティ対策に関しては何よりも重んじている。第一に優先すべき事項だ。余程のことがなければ不具合なんてあり得ないはずだった。
その《《余程》》が今回の事件だった。
津川フロンティアが作ったネットワークに外部から何者かが侵入し、データを盗んだり情報を改竄したりする────いわゆるサイバー攻撃というやつだ。
あまりニュースにはなっていないが、珍しいことではない。大手金融機関や企業でも頻繁に起こっていることだ。
だが、津川フロンティアはネットワークサービスを提供する会社だ。そのようなことが起こらないように対策は取っていた。
ではなぜこのようなことが起こったのか。文也は心当たりがあった。
父親だ。それ以外に考えられなかった。
あれから何度か催促の連絡があったが、文也はその度に誤魔化していた。それで痺れを切らしてこういった手段に出たのだろう。肌黒い狐の考えることなど知れている。
しかし、文也は予想出来なかった。《《父親が自分を捨て駒にした》》などと、どこの子供が考えるだろう。結果はそう物語っているが、確信に至ったのは事態がある程度収まってからだった。
ことが起こってすぐ、社員から報告を受け、事態の収集で走り回ることになった。
考えたくないが、社内に父親の回し者がいたようだ。でなければこんな不具合が起こるはずがない。
そして最悪なのが、ネットワークサーバーに侵入した際に使われていたのが美帆の社員IDとパスワードだった。
恐らくこれもどこかから侵入した際に手に入れたのだろう。これが知られたら美帆が疑われるのは目に見えている。
なぜこんな回りくどい真似をしたのか。文也と美帆が付き合っていることを知っていたからだ。全ての責任を美帆に押し付ける気なのだ。
文也はすぐに藤宮コーポレーションに向かった。美帆が糾弾されていると思うといても立ってもいられなかった。
────俺と付き合ったから、こんなことになったんや。
失礼千万なのは承知で社長室に直接向かった。いるかどうかも分からないが、美帆はいるはずだ。
社長室の前に着くと、中から切羽詰まった声が聞こえてきた。美帆の声だった。
『し────知りません! そんなこと、初めて聞きました』
思った通り、中でその話がされていた。
美帆は戸惑っていた。当然だ。何も話していないのだから。こんなことが起こるなど予想していなかったに違いない。
美帆が疑われていると分かって無視は出来なかった。
ノックをして返事も待たず中に入る。刺すような視線が文也に向けられた。
「どうも、津川文也です」
社長に常務、おまけに青葉秘書までいる。この会社のスリートップだ。三人は厳しい視線を向けて来た。無断で押し入ったのだから当然かもしれない。
こんな三人に囲まれてよく仕事できるな、と文也は思った。もっとも、今は不測の事態で気が立っているのだろう。
文也は美帆には視線を向けず、社長と美帆の間に立った。
「うちの作ったシステムが迷惑をかけたそうで、申し訳ありませんでした」
「そんな簡単な謝罪で済むようなことではなかったと思いますが」
青葉秘書は刺々しい言葉で嗜めた。こんなところで嫉妬していた対象と話すなんて滑稽だ。だが、怒られて凹んでいるような歳でもない。
三人は美帆が自分の社員用IDとパスワードを使ってサーバーに侵入させる手引きをしたと思っているはずだ。その疑いを解消するためにはどうすればいいか?
文也はすぐに判断を下した。
「社長さん、あんたんところの社員、ちゃんとしてますよ。ま、俺にとっちゃなんの役にも立ちませんでしたけど」
この場には不釣り合いな笑みを浮かべ、あえて無礼な物言いをした。文也は美帆に視線を向けた。
ようやく見た美帆は戸惑っているようだった。まだ事態が飲み込めていないのだろう。そんな彼女に心にもないことを投げかけた。
「ごめんなぁ、杉野サン。最初っから利用さしてもらっててん」
「え……?」
「俺が欲しかったのは藤宮のデータ。それだけやねん」
元々の計画だ。杉野美帆に近付き、藤宮内部の情報を手に入れる。結果は成功だ。あの父親は自分を出し抜き、美帆の社員IDを使って内部の情報を抜き取った。
美帆に罪をなすりつけることで逃れるつもりだったのだろう。そうすれば津川フロンティアの罪は軽くなるのだから。
────俺が美帆に近付かんかったら、こんなことにはならへんかったのに。
頭の軽い女だったら騙しても良心は痛まないと思った。そう思って美帆に近付いた。本当の美帆がどんな女性かも知らずに。
目の前で美帆が泣きそうな顔をしている。なのにどうして自分は笑っているのだろうか────。
「アンタが一番落としやすそうやと思って近付いてんけど、予想外やったわ。こっちは情報聞き出せると思って色々やってんのに全然喋らへんし、堅すぎて全然おもんなかったわ。骨折り損のくたびれもうけ」
ここまでご丁寧に説明したのだから、この三人だって分かるはずだ。《《美帆は騙されたのだ》》、と。
事実、美帆は何一つとして喋っていない。当たり障りない内容は話したが、彼女はなにも言わなかった。
そして、自分も聞けなかった。結局、聞けなかったのだ。
聞こうと思ったこともあった。聞きかけたこともあった。けれどその度胸が痛んで、実行には踏み切れない。
ただ生ぬるい風呂にダラダラ浸かるような時間を過ごし、愛情に溺れ、普通であることを願った。
美帆との時間は楽しかった。
けれどそれも終わりだ。これ以上美帆といることは出来ない。
目の前で潤む瞳が告げる。「どうして」と。「嘘だったの?」と。泣かせたことなんてなかったのに、初めて彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
────嘘なわけないやん。お前のこと、どんだけ好きやったか。
この後の展開は見えている。会社は契約を切られるだろう。あの父親からしこたま怒鳴られて、家の恥だと言われる。そして、美帆はいない。
文也は思った。「津川文也」ではなく、「滝川文太」の方がいい人生を送れたかもしれない、と。
そうすればこんなふうに人を傷付けることもなかったし、仕事だって普通に出来た。笑い合いたい人間と、話したいことを話せただろう。
────あかんねんな。俺みたいなんじゃ……。