とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
それからいつも通りの日常が戻ってきた。美帆は相変わらず秘書課で仕事を続けた。
津川フロンティアの話は関わった社員が漏らしたのか、色々尾鰭を付けて出回った。もちろんその中には美帆と文也が付き合っていたという話もあったが、美帆に直接その話を聞いてくるような人間はいなかった。
ただ、受付嬢の皆は心配していた。どこからか話を聞いたのだろう。しかし、誰も美帆が騙されたとは言わなかった。「津川さん大丈夫なの?」と聞いてくるだけだ。
あの社内通達だけ見れば、単に津川フロンティアが管理していたサーバで不具合が起こり、外部からの不正アクセスを受けて社員のIDとパスワードが盗まれたとしか思わない。
ハッキリ津川フロンティアを原因としなかったのは犯人の特定をしようとする社員がいるからなのか、それとも本当にそうなのか。
青葉は外部の仕業だと言っていたが、それは津川フロンティアと関係しているのだろうか。
休憩時間、久しぶりに沙織に誘われて昼食に出掛けた。普段は社員食堂だが、人目を気にしてくれたのか、沙織は中階にある休憩スペースを提案した。
二人で一階のコンビニに行き、昼食を買ってそこへ向かう。人はそこそこいたが、いても気にならない程度だ。美帆と沙織は適当な場所を選んで座った。
「たまにはこっちもいいよね」
沙織は分かっているのかもしれない。だから気を遣ってくれたのだろう。
「秘書課はどう? 慣れてきた?」
「うん。もうだいぶん落ち着いたかな」
「いいよねぇ。秘書課はイケメンパラダイスだから。あ、でも独り身なのは胡桃坂君くらいか……」
「沙織ったら、結婚したのにまだそんなこと言ってるの?」
「伴侶と目の保養は別よ」
美帆はくすくすと笑った。普段おしゃべりな沙織が聞かないということは、そういうことだ。今日は元気付けようと思って誘ったのかもしれない。
「またさ、パーっとみんなで遊びに行こうよ」
「旦那さんが寂しがるよ」
「いいの、そんなこと気にしなくて」
「大丈夫だよ。そんなに気を遣ってくれなくても」
言ったそばから瞳が潤む。人の優しさが身に染みるのだろうか。
文也と付き合った期間は大して長くもないのに、それでも喪失感を覚える。沙織や他の皆が羨ましいと思った。
「大丈夫だよ。無理しなくていいから、吐き出せばいいんだって」
沙織の手が背中をポンと叩いた。そのせいで、抑えていた涙が一つ零れた。
どうして自分は沙織達のように幸せな恋人になれなかったのだろう。どうして文也は嘘をついたのだろう。
社長の言っていることも、文也の言っていることも分からない。
「文也さんのこと……信じたらいいのか分からないの」
「それって、社長からの通達のこと……? 色々噂は聞いたけど……」
美帆はゆっくりと頷いた。
「まだ津川さんが悪いって決まったわけじゃないんでしょう? システムの不具合なんてよくあることじゃない。そんなに気にしないで……」
美帆は本当のことを伝えた。文也が自分を騙していたこと。滝川が文也だったこと。藤宮の情報を手に入れるために近づいたこと。全部だ。
あれからずっと、文也に言われた冷たい言葉だけが頭の中をぐるぐると回っている。言葉にすればするほど冷たい記憶が蘇って心が凍りそうだった。おさまりかけたはずの涙がまた溢れる。
「……ごめんね。私が焚き付けるようなことしたから」
美帆はただ首を横に振った。それで沙織を恨むつもりはない。最終的に決めたのは自分自身だ。最初は嫌いだったが、ちゃんと謝って、真摯な態度で向かってきた文也に心を許した。信じられると思ったから信じたのだ。
「文也さんは、最初から私のことなんて好きじゃなかったの。全部、私を利用するためで……」
「でも、変じゃない? 騙した相手にわざわざそんなこと言いにくるなんて。私だったらそのまま責任押し付けてトンズラするけど」
「それは……」
「別に津川さんを庇うわけじゃないよ。けど、逃げなかったのは何か意味があるんじゃない? 下手すれば津川さんの会社潰れるわけじゃない。津川さん自身も責任問われて捕まる可能性だってあるし。そんなリスク冒してまで藤宮の情報取りに来ようとする? 自殺行為よ」
美帆は疑問に思った。確かにそうだ。本当なら責任は自分が被ることになったはずだ。なのに文也はわざわざやってきて自分が騙したのだと暴露した。
社長も言っていた。改めて冷静に考えればおかしなことだ。
そして文也は自分の会社を大事にしていた。自分自身の力で作った会社を誇りに思っていた。そんな人が、藤宮の情報欲しさにあんな事件を起こすだろうか──。
もし外部の犯行なのだとしたら、文也は罪を着せられたのだろうか。
だが、なぜあんなふうに真実を伝えたのだろう。やはり、自分を庇うためだったのだろうか。何か重大なことを見落としているような気がした。
津川フロンティアの話は関わった社員が漏らしたのか、色々尾鰭を付けて出回った。もちろんその中には美帆と文也が付き合っていたという話もあったが、美帆に直接その話を聞いてくるような人間はいなかった。
ただ、受付嬢の皆は心配していた。どこからか話を聞いたのだろう。しかし、誰も美帆が騙されたとは言わなかった。「津川さん大丈夫なの?」と聞いてくるだけだ。
あの社内通達だけ見れば、単に津川フロンティアが管理していたサーバで不具合が起こり、外部からの不正アクセスを受けて社員のIDとパスワードが盗まれたとしか思わない。
ハッキリ津川フロンティアを原因としなかったのは犯人の特定をしようとする社員がいるからなのか、それとも本当にそうなのか。
青葉は外部の仕業だと言っていたが、それは津川フロンティアと関係しているのだろうか。
休憩時間、久しぶりに沙織に誘われて昼食に出掛けた。普段は社員食堂だが、人目を気にしてくれたのか、沙織は中階にある休憩スペースを提案した。
二人で一階のコンビニに行き、昼食を買ってそこへ向かう。人はそこそこいたが、いても気にならない程度だ。美帆と沙織は適当な場所を選んで座った。
「たまにはこっちもいいよね」
沙織は分かっているのかもしれない。だから気を遣ってくれたのだろう。
「秘書課はどう? 慣れてきた?」
「うん。もうだいぶん落ち着いたかな」
「いいよねぇ。秘書課はイケメンパラダイスだから。あ、でも独り身なのは胡桃坂君くらいか……」
「沙織ったら、結婚したのにまだそんなこと言ってるの?」
「伴侶と目の保養は別よ」
美帆はくすくすと笑った。普段おしゃべりな沙織が聞かないということは、そういうことだ。今日は元気付けようと思って誘ったのかもしれない。
「またさ、パーっとみんなで遊びに行こうよ」
「旦那さんが寂しがるよ」
「いいの、そんなこと気にしなくて」
「大丈夫だよ。そんなに気を遣ってくれなくても」
言ったそばから瞳が潤む。人の優しさが身に染みるのだろうか。
文也と付き合った期間は大して長くもないのに、それでも喪失感を覚える。沙織や他の皆が羨ましいと思った。
「大丈夫だよ。無理しなくていいから、吐き出せばいいんだって」
沙織の手が背中をポンと叩いた。そのせいで、抑えていた涙が一つ零れた。
どうして自分は沙織達のように幸せな恋人になれなかったのだろう。どうして文也は嘘をついたのだろう。
社長の言っていることも、文也の言っていることも分からない。
「文也さんのこと……信じたらいいのか分からないの」
「それって、社長からの通達のこと……? 色々噂は聞いたけど……」
美帆はゆっくりと頷いた。
「まだ津川さんが悪いって決まったわけじゃないんでしょう? システムの不具合なんてよくあることじゃない。そんなに気にしないで……」
美帆は本当のことを伝えた。文也が自分を騙していたこと。滝川が文也だったこと。藤宮の情報を手に入れるために近づいたこと。全部だ。
あれからずっと、文也に言われた冷たい言葉だけが頭の中をぐるぐると回っている。言葉にすればするほど冷たい記憶が蘇って心が凍りそうだった。おさまりかけたはずの涙がまた溢れる。
「……ごめんね。私が焚き付けるようなことしたから」
美帆はただ首を横に振った。それで沙織を恨むつもりはない。最終的に決めたのは自分自身だ。最初は嫌いだったが、ちゃんと謝って、真摯な態度で向かってきた文也に心を許した。信じられると思ったから信じたのだ。
「文也さんは、最初から私のことなんて好きじゃなかったの。全部、私を利用するためで……」
「でも、変じゃない? 騙した相手にわざわざそんなこと言いにくるなんて。私だったらそのまま責任押し付けてトンズラするけど」
「それは……」
「別に津川さんを庇うわけじゃないよ。けど、逃げなかったのは何か意味があるんじゃない? 下手すれば津川さんの会社潰れるわけじゃない。津川さん自身も責任問われて捕まる可能性だってあるし。そんなリスク冒してまで藤宮の情報取りに来ようとする? 自殺行為よ」
美帆は疑問に思った。確かにそうだ。本当なら責任は自分が被ることになったはずだ。なのに文也はわざわざやってきて自分が騙したのだと暴露した。
社長も言っていた。改めて冷静に考えればおかしなことだ。
そして文也は自分の会社を大事にしていた。自分自身の力で作った会社を誇りに思っていた。そんな人が、藤宮の情報欲しさにあんな事件を起こすだろうか──。
もし外部の犯行なのだとしたら、文也は罪を着せられたのだろうか。
だが、なぜあんなふうに真実を伝えたのだろう。やはり、自分を庇うためだったのだろうか。何か重大なことを見落としているような気がした。