とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 翌日も綾芽の様子は変わらなかった。綾芽はどれだけ泣いていたのだろうか。なんだか目が腫れている。

 俊介はおはよう、とだけ声をかけてキッチンに向かった。体の具合は尋ねなくても分かった。聞くとまた、彼女を追い詰めるだけだろう。

 綾芽の体調が悪いのは精神的なものなのかもしれない。俊介はあれからいろいろ調べて、綾芽の症状と似たものを見つけた。医者に聞いたわけではないから断定はできないが、いくつものことが当てはまってそうだとしか思えなかった。

 綾芽の話は本人から少し聞いただけだからそこにどれほどの苦しみがあるかは分からないが、それは相当なものだったはずだ。家庭環境が悪いだけでなく金銭的にも苦しめられて、いわば今まで気を張り詰めていた状態だったのだ。それがふとしたきっかけでプツンと糸が切れてしまったのだろう。

 今の綾芽は無気力で情緒不安定だ。それだけならまだいいが、このまま悪化したら最悪の精神状態にまで追い詰められてしまうかもしれない。

 結婚式は三日後だ。だが、この状態ではとても無理だ────。



 俊末はいつもどおり仕事に向かったが、綾芽のことが気がかりで正直すぐにでも帰りたかった。

 会社のロビーを通ると、大きなクリスマスツリーが出迎える。もうすぐクリスマスなのだ。だが、俊介の気持ちは以前と違い暗かった。あの時のように楽しい気持ちでクリスマスを過ごすことはできないかもしれない。

 秘書室の扉を開けると、本堂がいた。彼は顔を上げると、珍しく「コーヒー飲むか?」と尋ねてきた。

 頭が冴えていないし、丁度いい。頼む、と返事した。

 本堂は他人に気を使うように見えないが本当は細やかな気配りができる人間だ。本人は大雑把を装っているがそうではない。だから今も、自分の暗い気持ちを察してそうしたのかもしれない。

「悪いな……」

 デスクに荷物を下ろし、椅子に腰掛ける。本堂は淹れたてのコーヒーを俊介のデスクと自分のデスクに置いた。

「相方の具合はどうだ」

「まぁ、……相変わらずだな」

「余計なお節介かもしれねえが、相方と離れたらどうだ」

 俊介は思わずキッと本堂を睨みつけた。あんなに応援してくれていた本堂にそんなことを言われるなどとは思っても見なかった。一体どういうつもりで彼はそんなことを言うのだろう。

「そんなこと出来るわけないだろ! 俺は……っ」

「落ち着け、俺は別れろとかそういうこと言ってんじゃねえ」

「じゃあなんだよ。なんで俺が綾芽さんと離れなきゃならないんだ」

「お前の相方の性格はそこまで知らねえが……聖から多少聞いた。多分、今の状況で一緒にいてもお前の相方はずっと負担を感じ続けるだろうよ」

「だから離れなきゃならないのか……? けど、彼女を元に家に返すなんて危なくて出来ない。また何かあったら……」

「家は他を探すだろ。アイツの状況じゃ引越しは難しいと思うが……今はそのほうが得策だ」

「俺がいれば少しでも彼女を助けてやれるだろ。一人でなんて────」

「お前、一人で生きたことねえだろ」

 その言葉は、俊介の胸にナイフのように深く突き刺さった。

 本堂の目は静かだった。それは嘲るわけでも、嫌味を言っているわけでもなさそうだった。

「誰も頼れない状況下で生きてきた人間は、そう簡単に人を信用しねえ。お前の相方見てりゃ分かるだろ。人に甘えられない人間は甘えることが苦痛なんだ。それだけしんどい思いして生きてきたんだよ。真反対のお前がそばにいてもそれが癒えるわけじゃねえんだ」

「じゃあ……俺には何も出来ないっていうのか。彼女が苦しんでても黙って見てろって……」

 綾芽は一人で泣いていた。彼女が泣いている姿を見たのは今まで数えるほどしかない。滅多なことでは泣かない彼女がああして苦しんでいる。恋人である自分が何も出来ないなんて、笑うしかない。

「そうじゃねえ。ただ、離れることが相手を助けることもある」

「……悪いが、いくらお前の言葉でもそれは聞けない」

 本堂が間違っていることを言っているとは思わない。だが、今綾芽から離れたら綾芽が壊れてしまうような気がした。

 綾芽には休息の時間が必要だ。休んでいればきっとよくなるはずだ。

 だが、自分は忘れていたのだ。咲き続ける花などない。どんな美しい花も必ず枯れるのだということを。
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