とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 俊介がいない間に出て行ってしまおうか────。そうも考えた。

 だが、俊介からは納得の言葉を聞いていない。出て行ったところで、また家に来たら同じことだ。

 俊介が帰ってきたら、どんな顔をして出迎えたらいいのだろう。別れて欲しいと言ってきた相手がまだ家の中にいたら嫌だろうか。それならさっさと出て行ったほうがいいかもしれない。

 綾芽は食事が残ったままのテーブルを片付けた。

 食事を作ったのは、せめてもの償いだった。いつもよくしてくれる俊介に少しでもお礼がしたかった。別れる前に少しでも元気な自分を見せたかった。元気だから、もう大丈夫────そう思ってくれれば、別れることも納得してくれるかもしれないと思った。

 けれどそれは無駄だったようだ。あの優しい俊介が、そんなことで納得などするはずがない。

「あっ────」

 テーブルから皿を持ち上げたところで、綾芽はうっかり誤ってフォークを床に落とした。慌ててそれを拾い上げると、ふと床に見慣れないものが落ちていた。

 なんだかキラキラしている物体だ。白のようなオーロラのような色のそれは、薄くてまるで紙のようだ。見覚えがあるが、なんだろうか────。

 それを拾って手の中で見つめていると不意に思い出した。これはクリスマスの飾り付けで使うモールではないだろうか。なぜそんなものがここに落ちているのだろう。

 綾芽はハッとして、リビングにあった物置の扉を開けた。そこには大きな箱が斜めに立てかけてあった。それは、クリスマスツリーの箱だった。

「どうしてクリスマスツリーが────」

 押入れの中には他にも、飾り付けで使うモールやらオーナメントが入った箱があった。

 だが、俊介にしては随分無造作に詰め込んだように見えた。箱の中には数種類のオーナメントがぐちゃぐちゃに入っていて、俊介らしくない。まるで慌てて入れたような置き方だ。

 ふと思い出した。そういえばこの部屋に来た時、俊介は先に部屋の中に入ってしばらく出てこなかった。もしかして、これを片付けていたのだろうか。

 以前、クリスマスは楽しみにしててくれ、と言っていた。彼は、ここでクリスマスを祝うつもりだったのだろうか。

 綾芽は立ち上がってキッチンの後ろの戸棚を開けていった。そこには俊介がいつも使っている皿の他にも、綺麗なグラスやテーブルクロスが置かれていた。クリスマスの柄がついたペーパーナプキンまで置いてある。

 思わず泣き崩れた。俊介はずっと考えてくれていたのだ。どうすれば自分が喜ぶか必死に考えて、こうしていろいろ用意をしてくれていたのだ。少しでも幸福なクリスマスになるようにと────。

「俊介さん……ごめんなさい……。私、何もしてあげられない……」

 俊介のように綺麗な飾り付けも、クリスマスツリーも用意できなかった。ただ自分のことで精一杯で、俊介の喜ぶことをしてやれなかった。あんなに大切にしてくれていたのに、ただ苦しめただけだった。

 自分は俊介に何ができるだろう。彼が少しでも笑顔になれるように────。




 夕方頃から、綾芽はソファに座って俊介の帰りを待っていた。

 七時頃、玄関の扉が開く音がした。俊介だ。

 今日は少し残業があったのだろうか。綾芽は玄関の方を見ながら俊介が来るのを待った。

 俊介はドタドタといつになく慌ただしい足取りでリビングに入ってきた。彼はそのまま綾芽の元に近づくと、膝をついて鞄の中から何か紙のようなものを取り出した。それをローテーブルの上に置いて、綾芽の方を真剣な瞳で見つめた。

「綾芽、俺と結婚してくれ」

 それはあまりにも突然なプロポーズだった。綾芽が呆気にとられているのをよそに、俊介は鞄からなにか取り出した。小さな白い箱だ。何も言われなくてもその中に何が入っているか分かる。

 俊介は箱を開けて中身を見せた。

「俺が綾芽の家族になる。いや、なって欲しいんだ」

 綾芽はあまりのことに驚いてすぐに言葉を返せなかった。ちらりとテーブルの上に乗った紙を見た。それは婚姻届だった。しかも、俊介側の記入は全て済んでいる。まさか、彼はこれを取りに役所まで行ったのだろうか。そして指輪まで買ってきたというのだろうか。

 混乱する綾芽に、俊介は続けた。

「綾芽一人ぐらいどうってことない。辛いことがあれば俺が受け止めるし、一緒に悩む。綾芽が一人で抱え込む必要なんてないんだ」

「俊介さん……」

「今は甘えられないかもしれない。信じられないかもしれない。けど、俺は綾芽さんとずっと一緒にいたい。今は辛くても、必ず幸せにするから……」

 ────だから、俺と結婚して欲しい。俊介はそう言って綾芽を抱きしめた。

 綾芽は、また勝手に涙が溢れた。今泣いているのは悲しいからだろうか、それとも嬉しいからだろうか。きっとどちらもだ。こんな幸福なプロポーズがあるだろうか。泣きたいわけじゃないのに、涙が止まらなかった。

 俊介は体を離し、祈るように綾芽を見つめた。そして、その手に持った箱から指輪を取り出すと、綾芽の左手の薬指にそっとはめた。

 綺麗な花のモチーフが付いた指輪だ。花びらの部分にはめ込まれた石は、淡い紫色をしていた。どうして彼がそれを選んだか、聞かなくても分かる。

 「また来年になったら、二人で一緒にアヤメを見に行こう」

 綾芽は俊介の体をギュッと抱きしめた。声も出さずに泣きじゃくった。

 俊介はそんな綾芽を、ずっと抱きしめてくれていた。
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