とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
第27話 幸福な思い出
綾芽がいなくなってから一ヶ月が経過した。
あれから俊介は元の生活に戻った。綾芽がいた頃以前の生活だ。
「青葉さん! 来週に予定してた報告会のことなんですが────」
「ああ、それはマーケティング部に一任してるから、担当の原島に聞いてくれ。詳細の資料は後でメールしておく」
俊介は取引先との打ち合わせから戻ってくると足早にロビーを通り過ぎた。一瞬、コンビニに視線をやったが、またエレベーターの方に戻した。
年明けから俊介は仕事に忙殺されていた。聖と本堂も忙しいが、俊介はその二人のサポートもあって余計に忙しかった。
だが、それはある意味好都合だった。綾芽のことを考えずに済むのだから。仕事を忙しくしていれば、綾芽に振られたことなど忘れられるはずだ。
俊介は執務室の扉をノックした。中から返事がして、扉を開ける。デスクについた聖は忙しそうに仕事していた。
「俊介、例の企画書持ってる?」
「これだろ。さっき貰ってきた」
「ありがとう、そこに置いておいて」
聖は俊介と短い会話をしてまたデスクに向かった。今日のスケジュールは、聖は中で仕事。本堂は絶賛会議中だ。二人とも結婚式を挙げたばかりだが、仕事中はキビキビしていてさすがとしか言いようがない。
俊介も戻って仕事することにした。
デスクの上には各部署から上がってきた仕事が山のように積んである。溜息をつく間もなく、俊介はそれに取り掛かった。
聖が俊介にこれだけの仕事を振るのはその能力を信頼しているからだろうが、今回はそうではない。聖は敢えて俊介に膨大な量の仕事を振って、他のことを考えないように仕向けたのだろう。
聖の課した仕事量は膨大だが、できない量ではない。いつもそうだ。仕事を振るのは、聖なりの気遣いなのだ。
綾芽がいなくなったからと言って、俊介が何もかも無気力になるわけではない。ただ、しばらくは────いや今も、立ち直れているわけではない。
それでも仕事が出来るのは長年の経験があるからだ。今やっていることも、特に頭を捻らなければならないことではない。
ただ以前のように仕事に没頭し、何もない毎日を過ごすだけだ。
「ったく、頭の堅い奴らだ……」
本堂はぶつぶつ愚痴を言いながら扉を開けて入ってきた。会議が終わったのだろう。
「お疲れ。どうだった?」
「どうもこうも、頭が堅すぎて話にならねえな。今時んなアナログな方法で仕事するやつがいるかってんだ……」
本堂は少々ご立腹のようだ。会議でイライラすることがあったのだろう。普段冷静な彼にしては珍しいことだ。
本堂もデスクに着くと、俊介と同じようにパソコンに向かった。
あれから、聖も本堂も綾芽の話は一切しない。俊介が短い報告をしてから、ただの一度もだ。
さすがに言いづらいことだからだろう。あまつさえ、彼らは結婚式を挙げたばかりだ。人がプロポーズに失敗した話なんて蒸し返したくないに決まっている。
おかげで俊介はそのことを考える機会は減った。だが、綾芽との思い出はあまりにも多すぎる。色恋とは縁のないこの部屋にいても綾芽との記憶を思い出してしまうのだ。
昼の十二時を知らせるアラームが鳴った。本堂はキーボードを叩く手を止め、背伸びした。
「青葉、飯どうするんだ」
「俺はいい。まだやることがあるから」
「昼休憩返上してすることじゃねえだろ」
「早く終わらせておきたいんだ」
すると、隣の部屋から聖が入ってきた。
「二人とも、ご飯行かない?」
「秘書様はやることがあるから昼飯抜きだってよ」
本堂が告げ口すると、聖は眉を釣り上げて俊介を叱った。
「俊介、そこまで急ぎの仕事はないはずよ」
聖に言われてはどうしようもない。俊介はようやく手を止めた。
「俊介も、一緒にご飯どう?」
「いや────俺はいい。用事があるんだ」
「そう……」
俊介は財布を持って席を立った。そのまま一階のロビーへ向かい、コンビニに入る。さすがに、この時間は人でいっぱいだ。俊介はコーヒーとサンドイッチを手に取ってレジに向かった。
五分ほどして、ようやく順番が回ってきた。レジの店員は知らない若い女性だった。新しく入ったバイトだろう。まだ新人だからか、手元がおぼつかない様子だ。
────綾芽も、こんなふうな時期があったのかもな。
俊介はふと、綾芽のことを思い出した。自分が綾芽に気が付いたときには彼女は勤務して既に何年か経っていた。だとしても、彼女は掛け持ちで仕事しているからこの手の仕事はお手の物だろう。
このレジでしたやり取りも、思い出すとなんだか昔のことのように思えた。
レジで袋を受け取ってそのまま外に出た。外は寒かった。コートを羽織らずに来たのは不正解だ。だが、今更取りに戻るのは面倒だ。
そのまま歩き、会社近くの公園に入った。外はまあまあ寒いのに、こんな時でも公園のベンチは意外と埋まっている。皆もの好きなのだろうか。そういう自分もだが。
席はチラホラ空いていたが、俊介はそのまま奥へ進んだ。そして池の近くにある木陰下のベンチに腰掛けた。
サンドイッチとコーヒーを取り出し、封を開ける。二つともいつもと変わらない味だが、美味しいとは感じなかった。
ここに来ると、綾芽のことを思い出す。彼女に弁当を作ったことや、仲直りしたこと、彼女を怒らせたこと────。それは悲しいが、温かい思い出だった。
辛い思い出ばかりなら、思い出さないほうがいいだろう。徹底的に避けて、記憶からなくすべきだ。だが、綾芽との記憶は幸福だった。どんなに辛かった後でも、必ず幸せになれた。
昼の十二時になれば綾芽と一緒に食事したことを思い出すだろう。コンビニに行けば彼女が仕事していた姿を思い出し、公園のベンチに座れば彼女を抱きしめた記憶が蘇る。それは決して忘れ去りたい記憶などではなかった。
あれから俊介は元の生活に戻った。綾芽がいた頃以前の生活だ。
「青葉さん! 来週に予定してた報告会のことなんですが────」
「ああ、それはマーケティング部に一任してるから、担当の原島に聞いてくれ。詳細の資料は後でメールしておく」
俊介は取引先との打ち合わせから戻ってくると足早にロビーを通り過ぎた。一瞬、コンビニに視線をやったが、またエレベーターの方に戻した。
年明けから俊介は仕事に忙殺されていた。聖と本堂も忙しいが、俊介はその二人のサポートもあって余計に忙しかった。
だが、それはある意味好都合だった。綾芽のことを考えずに済むのだから。仕事を忙しくしていれば、綾芽に振られたことなど忘れられるはずだ。
俊介は執務室の扉をノックした。中から返事がして、扉を開ける。デスクについた聖は忙しそうに仕事していた。
「俊介、例の企画書持ってる?」
「これだろ。さっき貰ってきた」
「ありがとう、そこに置いておいて」
聖は俊介と短い会話をしてまたデスクに向かった。今日のスケジュールは、聖は中で仕事。本堂は絶賛会議中だ。二人とも結婚式を挙げたばかりだが、仕事中はキビキビしていてさすがとしか言いようがない。
俊介も戻って仕事することにした。
デスクの上には各部署から上がってきた仕事が山のように積んである。溜息をつく間もなく、俊介はそれに取り掛かった。
聖が俊介にこれだけの仕事を振るのはその能力を信頼しているからだろうが、今回はそうではない。聖は敢えて俊介に膨大な量の仕事を振って、他のことを考えないように仕向けたのだろう。
聖の課した仕事量は膨大だが、できない量ではない。いつもそうだ。仕事を振るのは、聖なりの気遣いなのだ。
綾芽がいなくなったからと言って、俊介が何もかも無気力になるわけではない。ただ、しばらくは────いや今も、立ち直れているわけではない。
それでも仕事が出来るのは長年の経験があるからだ。今やっていることも、特に頭を捻らなければならないことではない。
ただ以前のように仕事に没頭し、何もない毎日を過ごすだけだ。
「ったく、頭の堅い奴らだ……」
本堂はぶつぶつ愚痴を言いながら扉を開けて入ってきた。会議が終わったのだろう。
「お疲れ。どうだった?」
「どうもこうも、頭が堅すぎて話にならねえな。今時んなアナログな方法で仕事するやつがいるかってんだ……」
本堂は少々ご立腹のようだ。会議でイライラすることがあったのだろう。普段冷静な彼にしては珍しいことだ。
本堂もデスクに着くと、俊介と同じようにパソコンに向かった。
あれから、聖も本堂も綾芽の話は一切しない。俊介が短い報告をしてから、ただの一度もだ。
さすがに言いづらいことだからだろう。あまつさえ、彼らは結婚式を挙げたばかりだ。人がプロポーズに失敗した話なんて蒸し返したくないに決まっている。
おかげで俊介はそのことを考える機会は減った。だが、綾芽との思い出はあまりにも多すぎる。色恋とは縁のないこの部屋にいても綾芽との記憶を思い出してしまうのだ。
昼の十二時を知らせるアラームが鳴った。本堂はキーボードを叩く手を止め、背伸びした。
「青葉、飯どうするんだ」
「俺はいい。まだやることがあるから」
「昼休憩返上してすることじゃねえだろ」
「早く終わらせておきたいんだ」
すると、隣の部屋から聖が入ってきた。
「二人とも、ご飯行かない?」
「秘書様はやることがあるから昼飯抜きだってよ」
本堂が告げ口すると、聖は眉を釣り上げて俊介を叱った。
「俊介、そこまで急ぎの仕事はないはずよ」
聖に言われてはどうしようもない。俊介はようやく手を止めた。
「俊介も、一緒にご飯どう?」
「いや────俺はいい。用事があるんだ」
「そう……」
俊介は財布を持って席を立った。そのまま一階のロビーへ向かい、コンビニに入る。さすがに、この時間は人でいっぱいだ。俊介はコーヒーとサンドイッチを手に取ってレジに向かった。
五分ほどして、ようやく順番が回ってきた。レジの店員は知らない若い女性だった。新しく入ったバイトだろう。まだ新人だからか、手元がおぼつかない様子だ。
────綾芽も、こんなふうな時期があったのかもな。
俊介はふと、綾芽のことを思い出した。自分が綾芽に気が付いたときには彼女は勤務して既に何年か経っていた。だとしても、彼女は掛け持ちで仕事しているからこの手の仕事はお手の物だろう。
このレジでしたやり取りも、思い出すとなんだか昔のことのように思えた。
レジで袋を受け取ってそのまま外に出た。外は寒かった。コートを羽織らずに来たのは不正解だ。だが、今更取りに戻るのは面倒だ。
そのまま歩き、会社近くの公園に入った。外はまあまあ寒いのに、こんな時でも公園のベンチは意外と埋まっている。皆もの好きなのだろうか。そういう自分もだが。
席はチラホラ空いていたが、俊介はそのまま奥へ進んだ。そして池の近くにある木陰下のベンチに腰掛けた。
サンドイッチとコーヒーを取り出し、封を開ける。二つともいつもと変わらない味だが、美味しいとは感じなかった。
ここに来ると、綾芽のことを思い出す。彼女に弁当を作ったことや、仲直りしたこと、彼女を怒らせたこと────。それは悲しいが、温かい思い出だった。
辛い思い出ばかりなら、思い出さないほうがいいだろう。徹底的に避けて、記憶からなくすべきだ。だが、綾芽との記憶は幸福だった。どんなに辛かった後でも、必ず幸せになれた。
昼の十二時になれば綾芽と一緒に食事したことを思い出すだろう。コンビニに行けば彼女が仕事していた姿を思い出し、公園のベンチに座れば彼女を抱きしめた記憶が蘇る。それは決して忘れ去りたい記憶などではなかった。