とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 業務を終えた俊介は鞄を持って一階ロビーに降りた。

 これから特にすることもない。家に帰って食事して寝るだけだ。毎日やっていることだが、代わり映えがなくてつまらなかった。しかし、これが元の毎日だ。綾芽が居なかった時は、毎日こうしていたのだ。

「青葉さん!」

 後ろから声を掛けられ振り返ると、そこには財政課の女性社員数名がいた。

「これからお帰りですか? 私達夕飯食べに行くんですけど、もし良かったらご一緒にいかがですか?」

「いや、生憎用事があるんだ」

「そうですか……じゃあまた今度是非!」

 気を悪くしたふうでもなく、女性社員達はお辞儀をして俊介の横を通り過ぎた。

「ほら、やっぱり彼女がいるのよ! だから言ったじゃない!」

 そんな声が聞こえてきたが、今の俊介には笑えない冗談だ。こんな誘いは相変わらず続いていたが、いつも断っていた。他の女性と付き合えば傷は癒えるとよく言うが、そんなことをして彼女を忘れようとは思えなかった。



 帰宅すると、俊介はポストを確認した。中には役所からの通知が一通。それだけだ。他には何も入っていなかった。

 綾芽がいなくなった日、ポストには彼女に渡していた予備のカードキーが入っていた。もう戻ってくる気はないという綾芽の意思表示だろう。その宣言の通り、あれから綾芽は一度たりとも俊介の前に現れなかった。

 毎度何か入っていないかと期待してみるものの、そんなことあるわけがなかった。

 部屋に帰ると、ひんやりとした空気が部屋から漂ってきた。どうやら、暖房のタイマーをつけずにそのまま出かけていたらしい。これでは廊下の方が暖かいのではないだろうか。

 俊介はブルリと体を震わせながら薄暗い部屋に入り、暖房のスイッチを押した。温まるまでまだ少し時間がかかるだろう。

 ふと、視界の隅にあるそれに視線をやった。とっくに時期は過ぎているが、あれからそこに置いたままになっている。いや、片付けられないでいると言った方が正しいだろうか。

 俊介は真っ暗な部屋に、その聖夜の象徴の灯りを灯した。色のついた電球が変わるがわる灯る。とっくにクリスマスは過ぎているが、それは今も心に温かいものを届けてくれた。

 ────綾芽、元気で暮らしてるか?

 本当は追いかけようと思えば追いかけれたのだ。彼女の家を知っているなら、迎えに行くことだって出来た。彼女の勤め先を知っているなら、会いに行くことだって出来た。

 だが、それは出来なかった。綾芽が突き付けたのは別れなのだ。

 彼女は指輪を置いて出て行った。プロポーズは受けられないという意味だろう。短い時間で悩んだ指輪はかなり高い買い物だったが、玉砕してしまえば意味のないただの輪っかだ。いや、むしろ高価に見えたからいけなかったのか────。

 綾芽の性格を考えれば高いものを買ってきて申し訳なく思うことなど目に見えていたのに、どうしてもそれにしたかったのだ。大事な思い出の品に遠慮などしたくなかった。

 けれど結果的にそれは綾芽を追い詰めただけだった。自分がやった何もかもが、彼女を苦しめてしまったのだ。

 綾芽には休息が必要だ。だから、今元気で暮らしているならそれでいい。どこかで笑っているなら、それで構わない。

 納得したはずなのに、自分だけは何も変わらない。

 綾芽がここにいた痕跡を一つでも残しておきたくて、こんなものをいつまでも置いている。

 本当は期待しているのだ。綾芽がいつかは帰ってきてくれるかもしれないと。あの時のように、自分から会いにきてくれるのではないかと。

 綾芽と共になくなったものがもう一つだけある。自分が書いた婚姻届だ。

 探したが、あれだけは見つからなかった。あの時は綾芽が処分してしまったのかもしれないと思っていたが、彼女が持ち帰ったのなら、いつかはここに戻ってきてくれるのではないかと思えた。

 勝手な期待だ。そんなわけがないと分かっていても、まだ綾芽と一緒にいたかった。

 綾芽は幸せな一日だと言った。それは自分もだ。

 今綾芽がいなくても、幸福な思い出は変えられないのだ。その幸福が過ぎ去った後でさえ────。
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