とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 真琴の歓迎会が終わると、俊介は仕事の傍新人教育に追われた。

 真琴は要領もよく物覚えもいいが、それでも社会人一年目の新米だ。教えることは山ほどあった。

「真琴、この資料を広報部の松原さんに届けてくれないか」

「承知しました」

 真琴は俊介から資料を受け取ると秘書室から出て行った。

「どうだ? 期待の新人くんは」

 からかうように隣の席の本堂がニヤニヤした視線をぶつけてくる。

 本堂は真琴の教育には携わっていないが、同じ部屋で仕事をしているので彼の成長を直に見ることになる。本堂がこう言うということは、真琴はそこそこ期待されているということだ。

「いいんじゃないか? 今のところ、概ね問題はないよ。粗はあるが……新人だしな」

「俺に新入社員の研修全部任せたんだ。お前だって多少はやらねえとな」

「何言ってんだ。それは元々お前が巻いた種だろ」

「こら! 二人とも! 新しい子が入って来たのに喧嘩なんか────あれ? 真琴君は?」

 隣で会話を聞いていたのだろう。バタンと音を立てて聖が入って来た。だが、真琴がいないことすぐ気が付いたようだ。キョロキョロと視線を巡らせた。

「真琴は広報部に資料届けに行ったぞ」

「そう、とにかく。二人ともシャンとしてよね。せっかく新しい子が入って来てくれたんだから」

「悪かったな。オジサン二人がだらしなくって」

「もう、なに拗ねてるのよ」

 四月も終わりかけ、会社のメインイベントはほぼ済みつつあった。

 新人の指導は執事時代によくやっていたから特に苦はない。聖の仕事も落ち着いているし、当面は穏やかに仕事ができそうだった。

 気になることがあるとすれば、記憶の中にいる彼女のことぐらいだ────。

「あ、そうだ。一階のロビーの装飾なんだけど、春だし一新しようと思ってるの。何かいい案ある?」

「装飾って、観葉植物とか置いてるあれか?」

「ソファの後ろ、植え込みになってるでしょ? もうずいぶん古いから新しくしたらどうですかって社員から何件か意見が来てるの。目立つところだから綺麗にした方がいいと思うんだけど……私そういうのは疎いから」

「だからって男の俺らに聞くなよ。そういうのは女の方が得意じゃねえのか?」

「それはそうかもだけど……」

 エントランスは目立つ部分だが、冬の時期にクリスマスにツリーを置く以外特別目立ったものは置いていない。円形のソファがいくつかと、観葉植物が置かれているだけだ。他の会社のオフィスよりは綺麗だと思うが、見慣れてしまえばただのオブジェだ。見ていて楽しいものではないだろう。女性社員達が嘆くのも分かる。

 そうなると、華やかなものがいいだろう。聖はあまり派手なものは好まないが、社員達が喜ぶなら納得するはずだ。俊介はふと、あるものを思い浮かべた。

「花でも置いたらいいんじゃないか?」

「花?」

 聖は少し驚いたような顔をした。

「春だし、店とかでもよく造花で置いてるだろう。桜とか菜の花とか」

「あ、ええ……そうね。花ならみんな喜ぶかもね。じゃあ、その件は俊介に一任するわ。真琴君にも考えてもらっていくつかデザイン案を出してちょうだい」

 聖はよろしくね、と言って執務室に帰った。

「……青葉」

「なんだ?」

「無理してやる必要ねえ。嫌なら俺がやったって────」

「嫌じゃない。俺から提案したことだろ」

「だが……」

「お前が気を使ってくれるのは嬉しいよ。けど、俺は避けたくないんだ。彼女とのことは嫌な思い出じゃない。俺にとっては大事なことなんだ」

 本堂も聖も、意識的にそのことを避けていた。恐らく俊介が思い出さないように、苦しまないようにするためだろう。

 だが、俊介はもう苦しんではいなかった。

「表面的には、俺は彼女に振られた。それも、結構悲惨な形で」

 本堂は黙っていた。それは、そう思っているからだろう。

「でも、あれから考えたんだ。そうじゃないかもしれないって」

「そうじゃない?」

 彼女は自分のことを嫌いになったわけではない。大事にしてくれたからこそ出て行った。振られたからと言って彼女の愛情が嘘だったとは思わない。そこにあったのは本当の気持ちだったのだ。

「お察しの通り、俺はまだ引きずってる。諦め切れてないんだ。まだどこかで彼女に会えると思ってる」

「お前……」

「だから彼女との思い出はずっと大事にしておきたいんだ。俺はまだ、ここにあるって信じたい」

 無駄な思いだと馬鹿にするだろうか。本堂は効率が悪いやり方は嫌いだから、自分の選択を否定するかもしれない。

 だが、本堂は意外にもそうか、と言って頷いた。

「お前がそう思うならそれでいいんじゃねえか? 人生は一回しかねえんだ。思う通りにしたらいい」

「意外だな。お前は否定すると思った」

「俺も伊達に何年も待ってねえからな」

 本堂は思い出すように笑った。

 待てばどうにかなるものではないのだろうが、少なくとも今はそうしたかった。

 時間は記憶を思い出に変えていくだろう。しかし思い出は現実に呼び戻せる。忘れさえしなければ何度でも蘇るのだ。
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