とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 一階のロビーは俊介と真琴の折衷案で以前よりも華やかになった。

 俊介は情緒的なものがいいと生花を置いたらどうかと提案し、真琴はそれだとなくなったときに寂しくなるので緑はそのまま置きたいと意見を出した。

 結果的に、ロビーは花と緑で飾られることになった。

 桜の木だけはさすがに造花になったが、他は鉢植えを利用してビオラやマーガレットなど春の花を中心に植えている。知らない人間が入ったらなんだなんだと思うが、植物園のようだと社員達には好評だった。

「どうだ? 意外と俺もセンスあるだろ?」

 ロビーを見渡しながら、俊介は少し得意げに言って見せた。

「華やかで前よりもいい感じね。前は見通しが良すぎて休憩するのに落ち着かなかったみたいだから、これぐらいごちゃごちゃしてていいかも」

「短期間なのが残念だな」

「続けたらいいんじゃない? 年に四回とか……季節ごとに変えたらきっとみんな喜ぶわ」

 華やかになったロビーを後にして、俊介は秘書室に戻った。

 提案の中にはアヤメを入れたが、植木屋に難しいと言われてしまって却下になった。だから残念なことに俊介はまだ本物のアヤメを見ていなかった。

 ────そろそろ花屋に入る頃か。今日あたり寄ってみるか。



 業務は徐々に真琴に割り振り、俊介は事務仕事に専念した。

 真琴は俊介の代わりに電話をとることが増えた。かかってくることはそれほど多くはないが、電話に慣れる意味でやらせていた。

 秘書室にコール音が響く。すかさず真琴は受話器をとった。本日何度目かの電話だ。

「はい。秘書課、胡桃坂です」

 受け答えも板について来たようだ。電話はもう大丈夫だろう。

「はい、青葉さんですか? 承知いたしました。少々お待ちください」

 真琴は保留ボタンを押し、俊介に声をかけた。

「青葉さん、一階受付の杉野さんからお電話です」

「杉野さん? 今日は来客はなかったはずなんだがな……営業か?」

 俊介は首を傾げながらボタンを押して受話器を取った。

「はい、青葉です」

『受付の杉野です。お疲れ様です』

「ああ、杉野さん。お疲れ様です。何かありましたか?」

『あの、青葉さんにお届け物が届いていますけれど……ご存知でしょうか?』

「届け物? なんですか?」

『花束です。今お花屋さんが持って来てくださっているんですが────』

 花が届けられるのは珍しいことではない。社長秘書なんてしていれば、年に何度もこういった届け物はあった。今回もその類だろう。春だから新年度の挨拶かもしれない。

「差出人は?」

 俊介はいつものように尋ねた。

『タチバナアヤメさんと仰る方です』

 その名前を聞いた瞬間、俊介は心臓が止まったような感覚を覚えた。

「────!! そこにいるように伝えてください! すぐに行きます!」

 俊介は慌てて受話器を置き、立ち上がった。

「青葉? 何かあったのか?」

「悪い、確かめなきゃならないことがある」

 机の角に足をぶつけながら慌てて秘書室を飛び出した。

 一体なぜ? どうして? 俊介の頭の中を疑問の嵐が駆け抜ける。なぜ、今その名前が出てくるのだろう。その名前の知り合いは一人しかいない。馬鹿げた期待はすべきでないと思いながら、胸の中はかつての思い出いっぱいになった。

 ロビーにたどり着いた俊介は息を切らしながら受付に向かった。

 装飾のせいで見通しが悪く、なかなか受付が見えない。ようやくのことでそこに辿り着いた時、俊介は再び息を止めた。

「お久しぶりです……青葉さん」

 そこにいたのは、綾芽だった。彼女は大きな花束を抱えて、かつてのようにペコリと頭を下げた。

「あ、やめ……?」

 綾芽は腰から下にエプロンを巻いて、腰にハサミを入れたケースを下げていた。よく見る、花屋の格好だ。

「今日は……お礼を言いに来たのと、ご報告に来ました」

 俊介は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。

「あれから……頑張って借金を全部返したんです。花屋で勉強を続けて……花束も作れるようになりました。だから、あなたの前に立つ自信がついたから、会いに来ました」

 その割に綾芽の唇は震えていた。瞳も潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。俊介もつられて泣いてしまいそうだった。

 綾芽が抱えている花束を見て、俊介はふと気がついた。それは以前ネットで調べた時に見たアヤメそのものだった。彼女はこの花を見せに来たのだ。

「この花が、アヤメか……」

「上手に花束が作れるようになったら、あなたに見せたかったんです」

 綾芽はぎこちなく笑顔を浮かべた。

 恐らく、ここに来るのも相当勇気がいったに違いない。彼女は自ら家を出て行った。会いに来づらかったことだろう。だから、こういう手段を取ったのかもしれない。

 二年ぶりに再会した。別れは酷いものだった。必死の思いで買った指輪は置き去りにされ、幸せだったなんて捨て台詞まで残して去られたのだ。

 だが、憎しみはこれぽっちも湧かなかった。今も綾芽に会えて勝手に期待してる。綾芽はまだ、自分と同じ思いを抱えているのではないかと────。

「なんだか……私がいない間にずいぶん変わりましたね」

「何も変わってない……」

「青葉さん、私は────」

 綾芽の涙がこぼれ落ちる前に、俊介は綾芽を抱きしめた。

「綾芽……俺の気持ちは変わってない。もし君にまだ俺への気持ちが残ってるなら────」

 願いを込めて、俊介は綾芽の体をきつく抱きしめた。

「……お返事は、この……花束の中に、入っています」

 ゆっくりと体を離すと、綾芽は花束を俊介の方に向けた。その中には少し大きめの封筒が入っていた。

 御覚束ない手つきでそれを手に取ると、中身を取り出して開いた。

 それは、いつか自分が書いた婚姻届だった。随分久しぶりに見た。慌てて書いたから少し字が汚い。

 俊介は自分の名前の隣に書いてある文字を見て、また泣きそうになった。

「青葉さん、私とずっと一緒にいてくれますか……?」

 見間違いではなかった。そこには確かに、立花綾芽の文字が書かれていた。

 綾芽は涙を瞳いっぱいに溜め、懐かしい声で呟いた。

「ああ……だからもう一度、俊介って呼んでくれ……」

 とても幸せな一日でした────。俊介はその時、あのメッセージカードに書かれた言葉を思い出した。

 二度目のプロポーズはどうやらうまくいったらしい。

 青葉俊介、三十八歳。ようやく二度目のプロポーズに成功する。

 みっともない肩書きだが、自分はこれで十分だ。




      完
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