とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
第6話 チャンスをください
 ────言い過ぎた。

 通勤路をとぼとぼ歩きながら綾芽は昨日あったことを思い出した。

 何度も親切にされるのが申し訳なくてつい誘ったところまではよかったが、まさかあんな高級そうな店に連れて行かれるとは思わなかった。

 いや、藤宮コーポレーションに勤めているならあれぐらいは当たり前なのかもしれない。

 だとしても自分は浮いていたし、お洒落な雰囲気にとても馴染めるような気がしなかった。
 
 周りにいるのは綺麗な格好をしたOLやサラリーマンばかりで、服を持ってないとはいえ、もっと綺麗な格好をすべきだったと後悔した。

 気を遣ってくれたのかテラス席を選んでくれてほっとしたが、メニュー表を見て愕然とした。二人分の食事代を計算したら自分の一ヶ月の食費が軽く飛んでしまうような金額だった。

 いや、それも藤宮コーポレーションに勤めていれば当たり前なのかもしれない。

 とにかく悩んで一番安いパスタにしたものの、美味しさを味わうどころではなかった。値段の方が気になってどうにも食事に集中できない。

 だが、問題は値段や店ではなかった。彼が自分が出すから、と言ったことだ。

 お礼がしたいと言って誘ったのは自分だ。まさかこんな高い店に連れてこられるとは思わなかったが、それでもある程度は持ち合わせもあるし一万ぐらいは想定していた。高かろうがなんだろうが、出すつもりでいたのだ。

 彼は申し訳なく思って厚意でそう申し出たのだろう。自分の年齢を聞いて、歳上なのだから出すべきだと思ったのかもしれない。

 けれど、狭量の狭い自分はそう言われると、どうしても父親のことが頭をよぎった。

 俺がいるから生活できるんだ、俺が稼いできてやってるんだ────。どうしても嫌な記憶がよぎってしまう。

 青葉はそんなつもりではなかったのだろうが、あんな父親のもとで育ったせいか、他人の金で平然と食事することができなかった。

「青葉さんが嫌味な人じゃないって分かってるのに……なんであんなひどい言い方しちゃったんだろう……」

 青葉が本当に自己満足であの場所に連れて行ったのなら態度で分かる。青葉は最初から最後まで紳士的だった。あの店も、自分が喜ぶと思ったから選んだと言っていた。

 お金のことや身なりのことが気にならなければもっと楽しめたはずなのだ。

 ただ、自分が受け入れられなかっただけで────。

 モヤモヤしたまま店に着いてしまい、綾芽はロッカーへと向かった。今日の朝番は萩原だけだ。彼も着いたばかりなのか、上着を着替えている最中だった。

「あ、立花さん。おはようございます」

「おはよう」

「なんか顔暗くないですか?」

「……そんなことないよ」

「氷の女王は健在なんですけどね、ははっ」

「怒るよ」

「冗談ですよ。なにかあったんですか?」

「……萩原君は、もしご飯代全部出すよって言われたらどう思う?」

「え? めっちゃラッキーじゃないですか! よっしゃー! ってなりますよ」

「……そうだよね」

 それが普通の反応だ。普通の人間なら、ラッキー、得したと思うのだろう。

 だが、どうも自分はそれが出来ない。

 彼もきっと、「ありがとうございます!」と返事して嬉しそうに食事する自分を期待していたかもしれない。

 だがそんな可愛い反応は出来なかった。

「え、立花さんご飯行ったんですか? またナンパですか?」

「人聞きの悪い言い方しないで。別にナンパじゃない。ただ、仕事で付き合いある人とちょっと食事しただけだよ」

「ふーん、それで、その人が奢ってくれたんですか?」

「……私が出したの」

「えー! なんでですか!? 向こうが出すって言ったんじゃないんですか!?」

「そうだけど……」

「そこはその人のプライドを立てた方がよかったんじゃないですか? わざわざ出すって言ってくれたんですし、それで気分悪くされたら仕事にも影響でるじゃないですか」

「仕事────」

 ────そういえば、そうだ。

 綾芽はハッとした。

 今更だが、青葉は藤宮コーポレーションに勤める社員だ。役職までは詳しく知らないが、先日の一件から察するに、普通の平社員ではなさそうだ。他の社員に命令を下せるような立場なのだろう。

 そんな人間がもし、自分のことを上に報告したらどうだろう?

 藤宮コーポレーションはジェフミックの運営に関わる大元だ。というかそもそも、直接契約ではないにしろ自分は藤宮コポレーションに雇われていることになる。

 もし彼がここの運営に関わっていたりすれば、クビになる可能性だって十分にあるのだ。そう思うと背筋がゾッとした。
 
 謝った方がいいかもしれない。もしクビになれば、また仕事先を探さなくてはならなくなる。こんなに高待遇なバイト先はない。

 だが、彼がそんなことをするだろうか。少なくとも、別れの間際、彼は謝っていた。申し訳なさそうな顔をしていた。とても腹を立てているようには見えなかった。

「立花さん? 大丈夫ですか?」

「え? ああ……」

「もしかして、それで向こうの人怒らせちゃったとかですか?」

「……そういうわけじゃないけど」

「それならそんなに気にしなくてもいいんじゃないですか? そりゃ、気を遣う気持ちは分かりますけど、相手だって立花さんのこと気遣ってそう言ってくれたと思いますし、その人が損するわけじゃないと思いますよ。お互い気持ちよく過ごすための策っていうか」

「分かってる」

「ごめんなさいっていうより、ありがとうって言われた方が嬉しいじゃないですか」

 思い返せば、出会った時から今まで、自分は青葉には謝らせてばかりだ。

 彼は特別悪いことをしているわけでもないのに、気を遣わせているせいでいつも「すみません」と謝っている。

 迷惑に思っているわけでもない。ただ、自分の心が受け入れられないために。

 あの時だけでも、父親のことは忘れて楽しむべきだった。あんな場所に連れて行ってもらったことなど今まで一度もなかった。せっかく夢のような空間を味わえたのに、自分のせいで台無しにしたのだ。

「どうしよう……」

「そんなに気にしなくてもいいと思いますよ。普通にあの時はごめんなさいって謝ったらいいんじゃないんですか?」

「それで許してくれると思う?」

「大丈夫ですよ! 立花さん美人ですから!」

 萩原が親指を立ててニッと笑った。綾芽はおかしくてつられて笑った。
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