とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
綾芽のアドレス帳に「青葉俊介」の文字が加わった。それは奇妙な光景だった。
今までは仕事の連絡のためにしか使わなかったスマホだ。青葉は仕事先の人間ではあるが、直接的な関係者ではない。ただ食事の約束をした、友達でもないコンビニの客だ。
あれから何度かやりとりをして、次の食事の約束をした。
最初、店は綾芽が選ぶと言っていたが、青葉が「美味しくて安い店に詳しい知り合いがいる」と言ってきたので、青葉に任せることにした。
今度はもちろん予算も決めているし、敷居の高い店はNGでと伝えた。だから先日のような店にはならないはずだ。
あの店が悪いわけではなかったが、今の綾芽には三つ星レストランのように雲の上の存在だ。もっと気安い、かしこまらない店の方が余計なことを考えずに楽しめる。
月末は青葉も忙しいということで、月初めの金曜の夜に食事に行くことになった。
前回と同じで、青葉は五時退勤したあと綾芽を迎えに来た。
いつもと同じスーツ姿の青葉は、とても安い店に入るようには見えない。
「待たせた?」
「いえ、大丈夫です」
「今日は本当にラフな店だから、安心してくれ。気にいるかどうかは分からないけど……」
「大丈夫ですよ」
メッセージで何度もやりとりしたのだ。さすがに同じことは繰り返さないだろう。
会社の近くにあるという店は、青葉が上司から教えてもらった店だそうだ。安くて量もそこそこあるのと、赤出汁が美味しいそうだ。
その店は本当に会社の近くにあった。だが、大通りよりも少し奥まった場所にあった。
先日入った店とは外観がまるで違う。暖簾に引き戸、それも高そうな料亭ではなくて、もっと古びた、少し前の下町のような家の外観だ。こういう居酒屋は見たことはある。だが、とても青葉が入るような店には思えなかった。
「……ここですか?」
「ああ。とりあえず入って」
中に入ると、疑念は一層深まった。
壁に置かれた酒瓶の山と、張り出された手書きのメニュー表。剥き出しの裸電球。店はこぢんまりとしていて、一つの席がものすごく小さい。お世辞にも、綺麗やオシャレとは言いがたい店だ。
青葉はその中の席に適当に腰掛けた。もちろん予約席などではなさそうだ。
「……青葉さんは、ここに来たことがあるんですか?」
「下見で一度来ただけだよ。さすがにリサーチしておかないと、どんなものがあるか分からないから」
店員がおしぼりとお冷を持って来て、ドリンクを尋ねられた。青葉は烏龍茶を、綾芽も同じものを頼んだ。
「青葉さんはお酒は飲まないんですか?」
「ああ、普段はほとんど飲まないよ。仕事で車を使うこともあるから、ごくたまにだな」
「じゃあ、あの時も?」
「あれは────そうだな。すごくたまに飲んだうちの一回だ」
あの時、青葉はかなり酔っているふうだった。真面目そうに見えただけに、気分が悪くなるほど飲んでいることが不思議に思えたが、接待かなにかで飲まされたのかもしれない。
綾芽はメニュー表を見た。どうやらこの店は魚がメインの店のようだ。唐揚げや冷奴などの定番メニューもあるが、魚は旬のもので日ごとに変わるらしい。桜海老のかき揚げや白子の天ぷら、刺身も太刀魚など少し変わったものも置いている。
青葉は赤出しが美味しいと言っていたから、それを頼んでみようか。
「青葉さんはなにがおすすめですか?」
「俺はとにかく赤出汁を勧められたんだけど、俺自身は天ぷらの盛り合わせが美味しかったな」
「その上司の方は赤出しが気に入ってるんですね」
「B級グルメが大好きでこういう下町っぽい店ばっかり探し歩いてるんだよ。まあ、赤出汁も美味しかった」
「じゃあ、赤出汁を頼んでみます」
他の料理は適当に二人でつまめるものにした。
ドリンクが運ばれて来て、綾芽はなれない手つきでカチン、とグラスを合わせた。
「お疲れ様です」
「この店は大丈夫そう?」
「はい……」
「よかった。無理はしなくていいから。俺は苦でもなんでもないから希望があったら言ってくれ」
「好き嫌いは……ないんです。ただ、ちょっと慣れなくて……その、ああいう店に入ったことがなくて。普段は節約してるものですから……」
「それは、立花さんが掛け持ちで働いてることとなにか関係あるのか? いや、お節介だったな。俺が口を出すことじゃないんだが……」
綾芽は口籠った。青葉が疑問に思うのも道理だ。普通の二十代は掛け持ちして朝から晩まで働いたりしていないだろう。
借金の話は別に隠しているわけではないが、変に同情をされて気を遣わせたくない。
「……親がいないので、それで今まで学校に通うのに借りていた奨学金を返しているんです」
「……そうか。嫌なことを聞いて悪かった」
「いえ……」
苦し紛れの嘘だが、青葉は信じたらしい。まあ、それを嘘だ!などと疑ったりするような人ではないだろう。彼は真面目でとてもまっすぐな性格のようだ。
「私のことはいいんです。その……青葉さんはあの会社でお勤めだって言ってましたけど、どんなお仕事をしてらっしゃるんですか」
「俺は……別に、大した仕事じゃないよ」
「でも、前に……その、私に絡んできた人に、いろいろ言ってたじゃないですか。だから部長とか、課長とか、そういう役職なんだと思っていたんですけど……」
「────俺は普通の社員だよ。そんなにすごい人間じゃない。彼はたまたま新入社員だったから、上からものが言えただけさ」
「そうだったんですか……」
てっきり役職者だと思って気を遣っていたが、普通の平社員ならそれほど気を使わなくてもいいのかもしれない。身なりがよく見えたのは、彼が真面目できちんとした性格だからだろう。
それから青葉といろんな話をした。青葉は社員たちのスケジュール管理や打ち合わせのセッティングをしたり、とにかくいろんな仕事をしているらしい。
会社で仕事をしたことがない綾芽には想像もできない世界だったが、青葉が楽しそうに話していた。仕事は充実しているのだろう。
綾芽は借金のことは隠し、当たり障りなく自分のことを伝えた。
大変な思いをしているということが分かったのか、青葉も必要以上は聞いてこなかった。借金を負って日夜働いているなんて言ったら、青葉は気を遣ってまた今日の食事代を出そうとするかもしれない。
「でも、前回と今回も立花さんに出してもらったら俺が奢られっぱなしになるな。それなら俺が────」
「い、いいんです。失礼なことをしたのは私なんですから。気にしないでください」
「そうは言ったって……あ、それなら昼ごはんを御馳走するっていうのはどうかな」
「昼ごはん、ですか。でもそれだったらまた────」
「お店に行くんじゃない。俺が作るんだ」
「え、青葉さんがですか」
「もともと、自炊を始めようと思ってたんだ。ああ、料理はそんなに下手じゃないから大丈夫。軽食なら大体なんでも作れるから」
「え? いえ、あの……でもわざわざ作っていただくのは……」
「言い方は悪いけど、俺のついでだ。一人分だけ作るのが面倒だと思ってたんだ。むしろ食べてくれた方が食材を無駄にせず済むよ」
青葉はそういうが、いきなり手料理を作ってもらうのは気が引ける。だが、また人の親切を無下にして悲しませたくはない。人に甘えることを覚えるのも勉強だと、綾芽は頷いた。
「い、いくらお支払いしたらいいですか。食材の分は請求してください」
「なに言ってるんだ。夕食を奢ってもらったお礼なんだからお金なんていらないよ。そんなに豪華なものを作らないからたかだか知れてる」
「でも……」
「じゃあ、食べたら感想を教えてくれ。喜んでもらえた方が俺もやる気が出るから。それでチャラだ」
青葉は人のために何かすることを苦に思わないのだろうか。思わないからこうしていろいろ動けるのだろう。綾芽は不思議だった。
自分だったらあの白ご飯のシンプルなおにぎりを作るだけで精一杯だ。
結局、会計は綾芽が出したものの金額は先日の食事に比べたら大したものではなかった。
駅で別れて、青葉は会社に車を取りに行くと言っていた。会社の方へ戻っていく青葉の後ろ姿を見ながら、綾芽は奇妙な想いに囚われた。それは申し訳ないだとか、気不味いとか、そういう悪い気持ちではなかった。
今までは仕事の連絡のためにしか使わなかったスマホだ。青葉は仕事先の人間ではあるが、直接的な関係者ではない。ただ食事の約束をした、友達でもないコンビニの客だ。
あれから何度かやりとりをして、次の食事の約束をした。
最初、店は綾芽が選ぶと言っていたが、青葉が「美味しくて安い店に詳しい知り合いがいる」と言ってきたので、青葉に任せることにした。
今度はもちろん予算も決めているし、敷居の高い店はNGでと伝えた。だから先日のような店にはならないはずだ。
あの店が悪いわけではなかったが、今の綾芽には三つ星レストランのように雲の上の存在だ。もっと気安い、かしこまらない店の方が余計なことを考えずに楽しめる。
月末は青葉も忙しいということで、月初めの金曜の夜に食事に行くことになった。
前回と同じで、青葉は五時退勤したあと綾芽を迎えに来た。
いつもと同じスーツ姿の青葉は、とても安い店に入るようには見えない。
「待たせた?」
「いえ、大丈夫です」
「今日は本当にラフな店だから、安心してくれ。気にいるかどうかは分からないけど……」
「大丈夫ですよ」
メッセージで何度もやりとりしたのだ。さすがに同じことは繰り返さないだろう。
会社の近くにあるという店は、青葉が上司から教えてもらった店だそうだ。安くて量もそこそこあるのと、赤出汁が美味しいそうだ。
その店は本当に会社の近くにあった。だが、大通りよりも少し奥まった場所にあった。
先日入った店とは外観がまるで違う。暖簾に引き戸、それも高そうな料亭ではなくて、もっと古びた、少し前の下町のような家の外観だ。こういう居酒屋は見たことはある。だが、とても青葉が入るような店には思えなかった。
「……ここですか?」
「ああ。とりあえず入って」
中に入ると、疑念は一層深まった。
壁に置かれた酒瓶の山と、張り出された手書きのメニュー表。剥き出しの裸電球。店はこぢんまりとしていて、一つの席がものすごく小さい。お世辞にも、綺麗やオシャレとは言いがたい店だ。
青葉はその中の席に適当に腰掛けた。もちろん予約席などではなさそうだ。
「……青葉さんは、ここに来たことがあるんですか?」
「下見で一度来ただけだよ。さすがにリサーチしておかないと、どんなものがあるか分からないから」
店員がおしぼりとお冷を持って来て、ドリンクを尋ねられた。青葉は烏龍茶を、綾芽も同じものを頼んだ。
「青葉さんはお酒は飲まないんですか?」
「ああ、普段はほとんど飲まないよ。仕事で車を使うこともあるから、ごくたまにだな」
「じゃあ、あの時も?」
「あれは────そうだな。すごくたまに飲んだうちの一回だ」
あの時、青葉はかなり酔っているふうだった。真面目そうに見えただけに、気分が悪くなるほど飲んでいることが不思議に思えたが、接待かなにかで飲まされたのかもしれない。
綾芽はメニュー表を見た。どうやらこの店は魚がメインの店のようだ。唐揚げや冷奴などの定番メニューもあるが、魚は旬のもので日ごとに変わるらしい。桜海老のかき揚げや白子の天ぷら、刺身も太刀魚など少し変わったものも置いている。
青葉は赤出しが美味しいと言っていたから、それを頼んでみようか。
「青葉さんはなにがおすすめですか?」
「俺はとにかく赤出汁を勧められたんだけど、俺自身は天ぷらの盛り合わせが美味しかったな」
「その上司の方は赤出しが気に入ってるんですね」
「B級グルメが大好きでこういう下町っぽい店ばっかり探し歩いてるんだよ。まあ、赤出汁も美味しかった」
「じゃあ、赤出汁を頼んでみます」
他の料理は適当に二人でつまめるものにした。
ドリンクが運ばれて来て、綾芽はなれない手つきでカチン、とグラスを合わせた。
「お疲れ様です」
「この店は大丈夫そう?」
「はい……」
「よかった。無理はしなくていいから。俺は苦でもなんでもないから希望があったら言ってくれ」
「好き嫌いは……ないんです。ただ、ちょっと慣れなくて……その、ああいう店に入ったことがなくて。普段は節約してるものですから……」
「それは、立花さんが掛け持ちで働いてることとなにか関係あるのか? いや、お節介だったな。俺が口を出すことじゃないんだが……」
綾芽は口籠った。青葉が疑問に思うのも道理だ。普通の二十代は掛け持ちして朝から晩まで働いたりしていないだろう。
借金の話は別に隠しているわけではないが、変に同情をされて気を遣わせたくない。
「……親がいないので、それで今まで学校に通うのに借りていた奨学金を返しているんです」
「……そうか。嫌なことを聞いて悪かった」
「いえ……」
苦し紛れの嘘だが、青葉は信じたらしい。まあ、それを嘘だ!などと疑ったりするような人ではないだろう。彼は真面目でとてもまっすぐな性格のようだ。
「私のことはいいんです。その……青葉さんはあの会社でお勤めだって言ってましたけど、どんなお仕事をしてらっしゃるんですか」
「俺は……別に、大した仕事じゃないよ」
「でも、前に……その、私に絡んできた人に、いろいろ言ってたじゃないですか。だから部長とか、課長とか、そういう役職なんだと思っていたんですけど……」
「────俺は普通の社員だよ。そんなにすごい人間じゃない。彼はたまたま新入社員だったから、上からものが言えただけさ」
「そうだったんですか……」
てっきり役職者だと思って気を遣っていたが、普通の平社員ならそれほど気を使わなくてもいいのかもしれない。身なりがよく見えたのは、彼が真面目できちんとした性格だからだろう。
それから青葉といろんな話をした。青葉は社員たちのスケジュール管理や打ち合わせのセッティングをしたり、とにかくいろんな仕事をしているらしい。
会社で仕事をしたことがない綾芽には想像もできない世界だったが、青葉が楽しそうに話していた。仕事は充実しているのだろう。
綾芽は借金のことは隠し、当たり障りなく自分のことを伝えた。
大変な思いをしているということが分かったのか、青葉も必要以上は聞いてこなかった。借金を負って日夜働いているなんて言ったら、青葉は気を遣ってまた今日の食事代を出そうとするかもしれない。
「でも、前回と今回も立花さんに出してもらったら俺が奢られっぱなしになるな。それなら俺が────」
「い、いいんです。失礼なことをしたのは私なんですから。気にしないでください」
「そうは言ったって……あ、それなら昼ごはんを御馳走するっていうのはどうかな」
「昼ごはん、ですか。でもそれだったらまた────」
「お店に行くんじゃない。俺が作るんだ」
「え、青葉さんがですか」
「もともと、自炊を始めようと思ってたんだ。ああ、料理はそんなに下手じゃないから大丈夫。軽食なら大体なんでも作れるから」
「え? いえ、あの……でもわざわざ作っていただくのは……」
「言い方は悪いけど、俺のついでだ。一人分だけ作るのが面倒だと思ってたんだ。むしろ食べてくれた方が食材を無駄にせず済むよ」
青葉はそういうが、いきなり手料理を作ってもらうのは気が引ける。だが、また人の親切を無下にして悲しませたくはない。人に甘えることを覚えるのも勉強だと、綾芽は頷いた。
「い、いくらお支払いしたらいいですか。食材の分は請求してください」
「なに言ってるんだ。夕食を奢ってもらったお礼なんだからお金なんていらないよ。そんなに豪華なものを作らないからたかだか知れてる」
「でも……」
「じゃあ、食べたら感想を教えてくれ。喜んでもらえた方が俺もやる気が出るから。それでチャラだ」
青葉は人のために何かすることを苦に思わないのだろうか。思わないからこうしていろいろ動けるのだろう。綾芽は不思議だった。
自分だったらあの白ご飯のシンプルなおにぎりを作るだけで精一杯だ。
結局、会計は綾芽が出したものの金額は先日の食事に比べたら大したものではなかった。
駅で別れて、青葉は会社に車を取りに行くと言っていた。会社の方へ戻っていく青葉の後ろ姿を見ながら、綾芽は奇妙な想いに囚われた。それは申し訳ないだとか、気不味いとか、そういう悪い気持ちではなかった。