とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
第8話 動く感情は恋心の証明
青葉との逢瀬が始まってどれぐらい経っただろうか。
気がつけば毎週食事する仲になっていて、毎週木曜は彼とのランチ会になっていた。
最初は申し訳ないから、と言う気持ちが強かった綾芽だったが、今はそういう気持ちはほとんどない。それだけ気心知れた間柄になったからなのか、青葉には遠慮しなくてもいいと分かったからかも知れない。
青葉と一緒にいると、綾芽は不思議な気持ちに囚われた。
親切で、生真面目。最初はそれだけに感じていたが、今は違う。青葉と一緒にいると、張り詰めていた気持ちが穏やかになった。
借金のせいで心の余裕などなかったはずなのだが、青葉といると忘れかけた楽しい感情が蘇った。
食事をして楽しいと思うのもかなり久しぶりのことだった。周りの景色に気を配ったのも久しぶりだった。
この世にはこんな楽しいことがまだ残っていたのだ。借金が減ったわけではなかったが、以前よりも心のゆとりを持てていた。
青葉がかなり歳上だからか、話せないことはまだあるにしろ、虚勢を張る必要はなくなった。青葉は聞き上手なのか、なんでも話を聞いてくれる。自分の意見を押し付けるようなこともなく、前向きで、穏やかで、優しかった。
いつも綺麗で豪華な昼食を作ってくれて、最初は申し訳ない気持ちが強かったが、今はそれを嬉しく思っていた。
青葉は大したことないと言うが、いつも食べる側の気持ちを考えて食事を作ってくれる。おいしい、と言うと青葉はとても嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、また彼に会いたいと思えた。
昼休憩の時間少し前になると、綾芽はすぐにタイムカードを押す準備に入る。コンビニから公園までは徒歩二、三分ほどだ。
青葉の休憩は本来十二時からだが、綾芽に合わせて、それよりも少しだけ遅い時間に待ち合わせていた。
十二時になるとコンビニにはどっと客が押し寄せるため、綾芽はその客が引いてから休憩に行く。
今日の客を捌き終えて、綾芽は休憩に行く準備をし始めた。
「立花さん、最近外でお昼食べてますよね?」
バックヤードで食べていないのが気になったのだろう。萩原は不思議そうに尋ねた。
以前はいつもバックヤードに置かれたテーブルに着いて食べていたが、青葉と公園でランチするようになってからは、外で食事するようになった。
「うん。いい場所があったから」
「? そんな場所なんてありましたっけ?」
「あるよ」
綾芽は機嫌よくタイムカードを押した。
公園をうろついて良さげなベンチをいくつか見つけたから、最近は席の争奪戦に巻き込まれることもない。
お気に入りは池のほとりにあるベンチだ。ほどよく木陰で、風が気持ちいい。花もなにもない景色だが、自然が多くて落ち着いて過ごすことができた。
綾芽が待っていると、数分後青葉がやって来た。
青葉はその手にマチの広い紙袋を持っていた。その中には今日のランチが入っているのだろう。だが、綾芽も膝の上に袋を抱えていた。
「お疲れ様」
青葉は当然のように綾芽の隣に腰掛けた。もうその光景に違和感を覚えることはない。すっかり定例行事と化していた。
青葉の作る弁当はいつも鮮やかで、まるで女子が作るように可愛らしい。そのままSNSにでも載せてしまえそうな出来栄えだ。綾芽もはじめの方はそれを気にしてなんとか頑張っていたが、青葉に張り合うには実力も金銭的余裕もなくてやめた。
綾芽の作る弁当は鮮やかさも可愛さもかけらもない普通のおかずだ。青葉の作る弁当を主役にするなら、その脇役にしかならないようなものしか作れなかった。
だが、青葉は気にしていないのか、少ない時間でなんとか作ったそれをいつもおいしいと言って食べていた。
そんなわけない、とは思ったが、青葉の生真面目な性格を信じれたからこそ、それが本当だと信じることができた。
「今日は立花さんに少しいいニュースを持って来たんだ」
「いいニュース……? なんですか?」
「上司に相談したら、うちの中途採用試験を紹介されたんだ、もしやりたいなら受けてみたらどうかって」
「え? 藤宮コーポレーションのですか?」
「ああ、年に何回か募集するんだけど、特に応募条件はないんだ。うちの会社、少し前から採用条件が大幅に変わって、出身校とかそういうのは採用に影響されないようになってるから、大学を出てなくても大丈夫だよ
「え? あの、でもどうして急にそんな……」
「それにもしうちを受けなくても、うちが仕事を依頼してる花屋を紹介することもできる。それなら、花屋の勉強ができるだろ?」
「そ、それは嬉しいですけど……なんで……」
「俺のお節介だ。なにか出来ないか考えたんだけど、俺にはそれぐらいしか出来ないから……」
綾芽は言葉に詰まった。青葉がそこまで考えてくれているとは思わなかった。
借金のことは全て話していないが、家計がカツカツなことを知ってどうにかしたいと思ってくれたのだろう。それだけでも身に余ることなのに、まさか上司にまで掛け合ってくれるとは思わなかった。
青葉はいったいどこまで親切なのだろう。中途採用とはいえ、藤宮コーポレーションだ。気軽に受けられる企業ではない。そもそも自分は高校も中退していて受験以前の問題っだと思っていた。こうして受ける資格があると言われたでも救われた気分だ。
「青葉さん……」
「優遇することはできないけど、そういう方法もあるって知っておいて欲しいんだ。立花さんはまだ若いし、いろんなことが出来る。諦めずに色々やってみて欲しい」
「ありがとうございます。でも、仕事のことは自分でなんとかします」
「……悪い。またやりすぎたかな」
「いえ、迷惑に思っているわけではないんです。とてもありがたいお話だと思います。でも、本当に自分の自信に繋げたいから、自分の力でやりたいんです」
「そうか……それなら俺はなにも言わないよ」
「せっかく気を回してくださったのにすみません」
「いや、いいんだ。俺が勝手にやったことだから」
「それにしても、青葉さんは上司の方と仲がいいんですね。そんなことも相談に乗ってもらえるなんて」
「上司っていうか、半分幼馴染みたいなものなんだ。ずっと前からの仲だから色々話せるんだよ」
「もしかして、あの居酒屋さんを紹介してくれたのもその方ですか?」
「そう、B級グルメの店ばっかり探して歩いてるんだ。本人は金持ちなんだけど、煎餅が好きだったり安い定食が好きだったり変わった奴だよ」
「でも、青葉さんはとても信頼しているんですね」
「ああ、最高の上司だ」
青葉は屈託なく笑った。本当にその上司のことを信頼しているのだろう。
不意に、青葉のスマホが鳴った。青葉は一言断って電話に出たが、なんだか様子がおかしかった。随分困ったような様子だ。青葉は数十秒喋ると、眉を寄せたまま電話を切った。
「どうかしたんですか……?」
「悪い。緊急の用事だ。これからすぐに仕事に戻らなくちゃならない。上司がこっちに向かってる。そのまま仕事に行くよ」
「あ────そうですか。それなら……」
「悪いが、これは立花さんが持って帰ってもらえるかな。会社に戻る余裕もないみたいなんだ」
俊介が持って来た大きな弁当箱にはまだ弁当が少し残っていた。綾芽は事情を察し、頷いた。
少し待っていると、公園の向こうから女性が小走りで駆けて来た。髪の長いその女性は、青葉の姿を見つけると慌てた様子で謝った。
「食事中にごめんね、突然トラブルになっちゃって」
女性は綾芽の姿を見ると、軽く会釈した。綾芽もつられて会釈した。
上司というのは女性だったのか。今までずっと男性だと思っていたのでとても驚いた。
「それより、大丈夫なのか? 先方はなんて?」
「元請けと施主の方で揉めてるみたい。ちょっと話を聞いて仲裁してこないと、イベント自体なくなりかねないわ」
「そうか、ならすぐに行かないとな」
なんだか、随分大変そうな様子だ。綾芽は青葉の仕事のことが気になったが、それよりも女性に気を取られていた。
艶のある長い髪。キリッとした凛々しい顔立ち。パリッとしたシックなカラーのスーツに身を包んだ彼女は上司のイメージにぴったりだ。青葉と並んでいるととても絵になる。
「じゃあ、立花さん、悪いけど……」
「いえ……お仕事、頑張ってください」
二人が横に並んで早足で公園を出ていく姿を眺めながら、綾芽は残った弁当を頬張った。
だが、先ほどよりもおいしいと感じないのはなぜだろう。さっきまではあんなにおいしいと思っていたのに、今はもうなんだかお腹いっぱいだと思えた。
気がつけば毎週食事する仲になっていて、毎週木曜は彼とのランチ会になっていた。
最初は申し訳ないから、と言う気持ちが強かった綾芽だったが、今はそういう気持ちはほとんどない。それだけ気心知れた間柄になったからなのか、青葉には遠慮しなくてもいいと分かったからかも知れない。
青葉と一緒にいると、綾芽は不思議な気持ちに囚われた。
親切で、生真面目。最初はそれだけに感じていたが、今は違う。青葉と一緒にいると、張り詰めていた気持ちが穏やかになった。
借金のせいで心の余裕などなかったはずなのだが、青葉といると忘れかけた楽しい感情が蘇った。
食事をして楽しいと思うのもかなり久しぶりのことだった。周りの景色に気を配ったのも久しぶりだった。
この世にはこんな楽しいことがまだ残っていたのだ。借金が減ったわけではなかったが、以前よりも心のゆとりを持てていた。
青葉がかなり歳上だからか、話せないことはまだあるにしろ、虚勢を張る必要はなくなった。青葉は聞き上手なのか、なんでも話を聞いてくれる。自分の意見を押し付けるようなこともなく、前向きで、穏やかで、優しかった。
いつも綺麗で豪華な昼食を作ってくれて、最初は申し訳ない気持ちが強かったが、今はそれを嬉しく思っていた。
青葉は大したことないと言うが、いつも食べる側の気持ちを考えて食事を作ってくれる。おいしい、と言うと青葉はとても嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、また彼に会いたいと思えた。
昼休憩の時間少し前になると、綾芽はすぐにタイムカードを押す準備に入る。コンビニから公園までは徒歩二、三分ほどだ。
青葉の休憩は本来十二時からだが、綾芽に合わせて、それよりも少しだけ遅い時間に待ち合わせていた。
十二時になるとコンビニにはどっと客が押し寄せるため、綾芽はその客が引いてから休憩に行く。
今日の客を捌き終えて、綾芽は休憩に行く準備をし始めた。
「立花さん、最近外でお昼食べてますよね?」
バックヤードで食べていないのが気になったのだろう。萩原は不思議そうに尋ねた。
以前はいつもバックヤードに置かれたテーブルに着いて食べていたが、青葉と公園でランチするようになってからは、外で食事するようになった。
「うん。いい場所があったから」
「? そんな場所なんてありましたっけ?」
「あるよ」
綾芽は機嫌よくタイムカードを押した。
公園をうろついて良さげなベンチをいくつか見つけたから、最近は席の争奪戦に巻き込まれることもない。
お気に入りは池のほとりにあるベンチだ。ほどよく木陰で、風が気持ちいい。花もなにもない景色だが、自然が多くて落ち着いて過ごすことができた。
綾芽が待っていると、数分後青葉がやって来た。
青葉はその手にマチの広い紙袋を持っていた。その中には今日のランチが入っているのだろう。だが、綾芽も膝の上に袋を抱えていた。
「お疲れ様」
青葉は当然のように綾芽の隣に腰掛けた。もうその光景に違和感を覚えることはない。すっかり定例行事と化していた。
青葉の作る弁当はいつも鮮やかで、まるで女子が作るように可愛らしい。そのままSNSにでも載せてしまえそうな出来栄えだ。綾芽もはじめの方はそれを気にしてなんとか頑張っていたが、青葉に張り合うには実力も金銭的余裕もなくてやめた。
綾芽の作る弁当は鮮やかさも可愛さもかけらもない普通のおかずだ。青葉の作る弁当を主役にするなら、その脇役にしかならないようなものしか作れなかった。
だが、青葉は気にしていないのか、少ない時間でなんとか作ったそれをいつもおいしいと言って食べていた。
そんなわけない、とは思ったが、青葉の生真面目な性格を信じれたからこそ、それが本当だと信じることができた。
「今日は立花さんに少しいいニュースを持って来たんだ」
「いいニュース……? なんですか?」
「上司に相談したら、うちの中途採用試験を紹介されたんだ、もしやりたいなら受けてみたらどうかって」
「え? 藤宮コーポレーションのですか?」
「ああ、年に何回か募集するんだけど、特に応募条件はないんだ。うちの会社、少し前から採用条件が大幅に変わって、出身校とかそういうのは採用に影響されないようになってるから、大学を出てなくても大丈夫だよ
「え? あの、でもどうして急にそんな……」
「それにもしうちを受けなくても、うちが仕事を依頼してる花屋を紹介することもできる。それなら、花屋の勉強ができるだろ?」
「そ、それは嬉しいですけど……なんで……」
「俺のお節介だ。なにか出来ないか考えたんだけど、俺にはそれぐらいしか出来ないから……」
綾芽は言葉に詰まった。青葉がそこまで考えてくれているとは思わなかった。
借金のことは全て話していないが、家計がカツカツなことを知ってどうにかしたいと思ってくれたのだろう。それだけでも身に余ることなのに、まさか上司にまで掛け合ってくれるとは思わなかった。
青葉はいったいどこまで親切なのだろう。中途採用とはいえ、藤宮コーポレーションだ。気軽に受けられる企業ではない。そもそも自分は高校も中退していて受験以前の問題っだと思っていた。こうして受ける資格があると言われたでも救われた気分だ。
「青葉さん……」
「優遇することはできないけど、そういう方法もあるって知っておいて欲しいんだ。立花さんはまだ若いし、いろんなことが出来る。諦めずに色々やってみて欲しい」
「ありがとうございます。でも、仕事のことは自分でなんとかします」
「……悪い。またやりすぎたかな」
「いえ、迷惑に思っているわけではないんです。とてもありがたいお話だと思います。でも、本当に自分の自信に繋げたいから、自分の力でやりたいんです」
「そうか……それなら俺はなにも言わないよ」
「せっかく気を回してくださったのにすみません」
「いや、いいんだ。俺が勝手にやったことだから」
「それにしても、青葉さんは上司の方と仲がいいんですね。そんなことも相談に乗ってもらえるなんて」
「上司っていうか、半分幼馴染みたいなものなんだ。ずっと前からの仲だから色々話せるんだよ」
「もしかして、あの居酒屋さんを紹介してくれたのもその方ですか?」
「そう、B級グルメの店ばっかり探して歩いてるんだ。本人は金持ちなんだけど、煎餅が好きだったり安い定食が好きだったり変わった奴だよ」
「でも、青葉さんはとても信頼しているんですね」
「ああ、最高の上司だ」
青葉は屈託なく笑った。本当にその上司のことを信頼しているのだろう。
不意に、青葉のスマホが鳴った。青葉は一言断って電話に出たが、なんだか様子がおかしかった。随分困ったような様子だ。青葉は数十秒喋ると、眉を寄せたまま電話を切った。
「どうかしたんですか……?」
「悪い。緊急の用事だ。これからすぐに仕事に戻らなくちゃならない。上司がこっちに向かってる。そのまま仕事に行くよ」
「あ────そうですか。それなら……」
「悪いが、これは立花さんが持って帰ってもらえるかな。会社に戻る余裕もないみたいなんだ」
俊介が持って来た大きな弁当箱にはまだ弁当が少し残っていた。綾芽は事情を察し、頷いた。
少し待っていると、公園の向こうから女性が小走りで駆けて来た。髪の長いその女性は、青葉の姿を見つけると慌てた様子で謝った。
「食事中にごめんね、突然トラブルになっちゃって」
女性は綾芽の姿を見ると、軽く会釈した。綾芽もつられて会釈した。
上司というのは女性だったのか。今までずっと男性だと思っていたのでとても驚いた。
「それより、大丈夫なのか? 先方はなんて?」
「元請けと施主の方で揉めてるみたい。ちょっと話を聞いて仲裁してこないと、イベント自体なくなりかねないわ」
「そうか、ならすぐに行かないとな」
なんだか、随分大変そうな様子だ。綾芽は青葉の仕事のことが気になったが、それよりも女性に気を取られていた。
艶のある長い髪。キリッとした凛々しい顔立ち。パリッとしたシックなカラーのスーツに身を包んだ彼女は上司のイメージにぴったりだ。青葉と並んでいるととても絵になる。
「じゃあ、立花さん、悪いけど……」
「いえ……お仕事、頑張ってください」
二人が横に並んで早足で公園を出ていく姿を眺めながら、綾芽は残った弁当を頬張った。
だが、先ほどよりもおいしいと感じないのはなぜだろう。さっきまではあんなにおいしいと思っていたのに、今はもうなんだかお腹いっぱいだと思えた。