とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 綾芽は聖が指差した方向へ向かった。

 どうやらこちらは飲食店や雑貨屋がいくつかのブースに分けられて出店しているらしい。

 青葉は比較的早く見つかった。いつもと同じスーツを着た青葉は、違う場所に立っているだけなのにやけに格好良く思えた。

 綾芽は息を軽く吸って、よしと意気込んだ。朝何時間もかけて用意したのだ。多少は気付いてもらえるかもしれない。

「青葉さん……?」

 声を掛けると、俊介は勢いよく振り返った。

「……立花さん?」

「は、はい。そうです」

 青葉は少々驚いているようだった。格好がいつもと違うことに気付いてくれたのだろうか。

 だが、黙ったままだ。もしかして、化粧が濃すぎたのだろうか。そんなはずはない。何度も鏡を見て確かめたのだ。それかこのワンピースがあざとかっただろうか。青葉は真面目だからもっと保守的な、パンツスタイルの方が良かったのかもしれない。

 綾芽の頭には「失敗」の文字がよぎった。

「あの……青葉さん……?」

「あ、ああ……ごめん。あんまり見ない格好をしてたから……」

「すみません。こういうところに来たことがないので、どんな格好をして行ったらいいか分からなくて……」

 指摘される前に謝るのは傷付きたくないからだ。この服を買った時はあんなに気持ちが高揚していたのに、今ごろ後悔している。

 だが、青葉はやっと笑顔を笑顔を浮かべた。それはどこか照れているように見えた。

「その格好、似合ってる」

 その言葉を言われたらと思っていた。可愛い、とは流石に言わないかもしれないが、今の綾芽には十分嬉しい言葉だった。

 俊介は会場の端から端まで案内してくれた。このイベントのコンセプトや打ち合わせの時の裏話、各ブースの説明。青葉の説明を聞きながら、綾芽は何度も相槌を打った。

 青葉が苦労した仕事の話を聞くと、こんな完璧な人でも大変な思いをすることがあるのだと思った。料理もできて仕事もできる青葉は今のところ欠点のほとんどないかなりデキる男だ。そんな男の隣に立っていることが不思議だった。

 やがて青葉は自分が好きそうだから、とある店に連れて行った。

 そこはハンドメイド作家が出店しているブースだった。商品はこのイベントのテーマであるアクアリウムをイメージした夏らしいものを中心にポストカードやアクセサリー、マスコットなどが置かれている。

 普段は見ることのないものでも、綾芽も思わず吸い寄せられてしまう可愛さだ。普通の生活を送っていればこんなものを買って部屋に置いていたのかもしれない。

 その中のアクセサリーのコーナーに、花をモチーフにした作品がずらりと並べられていた。青葉に立花さんが好きそうだ、と言われてついそれを見てしまう。花は好きだ。本物でなくても可愛いと思う。

 その中に、よく知った花があって綾芽は思わず店員に尋ねた。

「あ、これってもしかして《《アヤメ》》ですか?」

 店員はそうですよ、と答えた。

「あやめ?」

 青葉は聞き返した。アヤメを見たことがないのだろう。

「はい。アヤメってお花です。すごく本物そっくりです」

 透明な素材で作られた紫色の花弁は見事に本物そっくりに作られている。とても細かい作業なのだろう。イヤリングだから穴を開けていない自分でもつけれそうだ。

 だが、こんなものは身につけたことがないし、身につけていくような場所もない。持っていてもタンスの肥やしになるだけだろう。

「じゃあ、それは今日の記念に俺からプレゼントするよ」

 突然、青葉が提案した。

「これ、お願いします」

 綾芽が止める間も無く、青葉はさっとそのイヤリングを店員に渡した。綾芽は慌ててそれを止めた。

「ま……待ってください! 自分で買えます! 青葉さんに買ってもらうなんて……そんなつもりで言ったんじゃありません」

「遠慮しなくていいよ。元はといえば俺から誘ったんだ。わざわざ来てもらったんだから、これぐらいはしないとな」

「そんな……高価なものなのに」

 どうして青葉はそこまでしてくれるのだろう。プレゼントなんてもらってしまったら、本当に期待してしまいそうだ。

 もしかして、じっと見ていたことがねだっているように見えたのだろうか。だとしたらとても浅ましい女だと思われていることになる。

 青葉は店員から受け取ったそれを綾芽に手渡した。イヤリングは綺麗にラッピングされている。なんだかとんでもないものをもらった気分になった。

 だが、今更断れない。それに、青葉が自分のために買ってくれたものを突き返すことは出来なかった。

「今日は来てくれてありがとう」

 嬉しそうに笑う青葉を見て、綾芽は申し訳ない気持ちになった。だが、喜ぶ気持ちの方が大きかった。

 他人になにかしてもらうことを拒否し続けていたが、今日は頑なに拒否する気分になれない。青葉と出会ってからだ。意地を張り続ける小さな自分は、どこかへ消えてしまった。

 青葉がそうしてくれることを嬉しいと思っていた。いや、愛しい、だろうか。

 それが青葉にとってただの気遣いだったとしても────。

「今度は、本物のアヤメを教えてくれないか?」

 押し退けようとしていた期待する気持ちが再び蘇る。

 青葉はほんの少し笑みを浮かべていたが、真剣な表情だった。社交辞令や冗談を言っているようには思えなかった。

 それを見ると、綾芽は胸の奥がきゅうっと縮こまった。

 また期待してしまいそうだ。けれど、この期待は無駄では終わらないかもしれない。それがいつになるか分からなくても、近くない、いつかの約束。

 青葉は知らないのだ。アヤメは春に咲く花なのに、今からだと何ヶ月も待たなくてはならない。そんな遠くの約束をしてくれたことが嬉しかった。

「……アヤメは、春に咲くお花なんです。だから……来年、一緒に……」

 見に行きませんか、と。やっとのことで最後の単語を告げた。恥ずかしくて顔が熱くなった。変な汗もかいている気がする。青葉と目を合わせられなかった。青葉は一体どんな顔をしているだろう。

「じゃあ、秋に咲く花でも冬に咲く花でもいいから、教えてくれ。春までまだ長いからな」

 ────冗談じゃなかった。

 顔を上げると、青葉は穏やかな表情のまま微笑んでいた。綾芽も、つられて微笑んだ。

 それなら、約束が途中で忘れ去られてしまうことはなさそうだ。

 困ったものだ。秋の花も冬の花も、花屋になりたいくせに大して知らない。

 その約束までに覚えておこう。青葉は真面目だから、その約束を果たそうとするに違いない。尋ねられた時に知らないなんて様にならないから、青葉に教えられるぐらい覚えておかなければ。

 青葉は覚えてくれただろうか。アヤメという花が春に咲くことを。それが自分と同じ名前だということを。
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