とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 綾芽は身支度を整え、家を出た。

 コンビニのバイトは朝早かったが、もう一つのバイトは朝九時スタートであることが多いため比較的ゆっくりと朝を過ごせる。それでも最近寝不足なせいか、生欠伸が止まらない。

 寝不足の原因は完全に青葉だが、時間とともに癒えるのを待つしか出来なかった。

 今日の仕事はビアガーデンのスタッフだ。恐らくだがとんでもなく忙しいので、余計なことは考えずに済むだろう。

 現場に行くとバイト仲間数人がすでに到着していた。彼らも慣れているため、特に緊張しているふうではなさそうだった。

「いいよねー昼間からビールなんてさ。あーあ、私もお酒飲みたーい」

「そういや綾芽、お昼に仕事入れるなんて珍しいよね。コンビニのバイトしてたんじゃなかったっけ?」

「ああ……うん。そっちは辞めたの」

「そうなの? まあ、バイト先なんて探せばいくらでもあるし、なんとかなるよ」

 有難いことに、彼らは同じぐらいの年頃で似たような境遇だった。それぞれ事情はあるが、理解があるため綾芽としては詮索されずに済んでほっとしていた。



 ビアガーデンはデパートの屋上で行われる。今日は平日だが、そこそこ客が来ていた。仕事内容はファミレスの仕事とあまり変わらないが、客が酔っているのが難点だ。

 綾芽は重いビールジョッキをいくつも握り客席の間を往復した。

 バイト仲間が苦言を呈した通り、昼間っから酒を飲んでいられるなんて羨ましいことこの上ない。だが、ビアガーデンのバイトはかなり割がよかった。まかないが出るだけで綾芽にとってはかなり好条件だ。日給な上に高待遇なのだから、綾芽以外であっても逃したくない仕事だ。

 昼休憩の時間になると、二人ずつ休憩を取らされた。綾芽ともう一人はキッチンが用意してくれたガーリックライスと手羽先を持って休憩室へ向かった。

「これでビールがあったら最高なのにね」

「私達は仕事だからね」

 デパートの休憩室はビアガーデンに比べて無機質だ。白い壁と並べられたテーブルには何人かデパートの制服を着た店員が座っていたが、誰も机に突っ伏して眠っていた。とてもお喋りできるような雰囲気ではない。

「うわ、みんな寝てるよ」

 綾芽達は出来るだけ人を避けて席を選んだ。ガーリックライスはさすがの美味しさだ。刻んだポークも入っていて香ばしい香りがする。

 ふと、青葉のことを思い出した。青葉は今頃どうしているだろうか。ひとりで昼食をとっているのだろうか。

 いや、きっと彼のことだから一緒に食事する人間なんて山ほどいるに決まっている。たかが一週間のうちのたった一回のランチがなくなっただけだ。気にするようなことではないだろう。

 ────でも、あの時はずっと私と話そうとしてくれてたよね。

 以前青葉が社長秘書だと分かった時、自分は青葉を避けるようになった。だが、青葉はずっと話す機会を作ろうとしてくれていた。何度避けてもメッセージを入れて、電話も何度もかけてくれた。そして、帰り際に引き止めて、綺麗な紫色の花束をくれたのだ。あの時、青葉は借金のことを黙っていたことを怒った。自分のことを理解してくれていた。

 綾芽は慌てて出掛けた涙を引っ込めた。あれも幸せな記憶だが、遠い昔のことのように思えた。

 青葉は真面目な男性だ。だから放っておけなかっただけなのだ。そんな親切を好意と履き違えて甘えていた自分が悪い。

 綾芽はさっさと食事を終わらせて立ち上がった。

「綾芽? もう戻るの?」

「うん。ここ、ちょっとお喋りできる空気じゃないしね」

 そんな言い訳をして、また会場に戻る。相変わらず客はいっぱいだが、三時ごろになればまた減るだろうか。青葉のことを忘れようと、綾芽はひたすら仕事に没頭した。

 仕事を忙しくしていれば青葉のことなんてどこかに消えるはずだ。今まで青葉のことを知らずに生きて来たのだから、それに戻るだけだ。

「お待たせいたしました」

 綾芽はジョッキをドン、とテーブルに置いた。若い男のグループの席だ。

 サラリーマンみたいな格好だが、サラリーマンがこんな昼間から酒を飲んでいるはずがない。

「君、可愛いね。よかったら仕事終わった後一緒にご飯でも行かない?」

「申し訳ありません。忙しいので」

「堅いなぁ。ちょっとぐらいいいじゃん」

男達はケラケラと笑い合った。酒に酔っているのだろう。よく見かける光景だ。

 だが、綾芽はまた青葉のことを思い出してしまった。

 ────お酒に酔ってると、男の人は思ってもみないことを言うんだよね。なら、やっぱり青葉さんは……。

 失礼します、と頭を下げて綾芽は逃げ込むようにパーテーションに囲まれたキッチンに入った。

 中でオーダーの整理をしていたバイト仲間が、ぎょっとして綾芽に駆け寄った。

「綾芽!? どうしたの!? なんかされたの!?」

「……っ違うの」

「違うって、泣いてるじゃない!」

 気が付いたら勝手に涙が出ていた。青葉と出会ってから、どうも涙腺が弱くなってしまったらしい。

 前はなにがあっても泣かないと決めていたのに、どうしてこんなにも弱くなってしまうのだろう。

 あんなに酷い振られ方をしても、自分はまだ青葉が好きなのだ。

 遠く離れても何もかもを青葉に結びつけてしまうだけだ。バイトを辞めた意味なんてまるでなかった。
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