とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
木曜になるまで、綾芽は考え続けた。青葉に再び会うことが自分にとって吉と出るか凶と出るか。何事もなく終わらせたいならこのままにしておくべきだ。
だが、常務に言われた言葉のせいで妙に期待してしまう自分がいる。
青葉が酔っていなかったのなら、あれは本音ということになる。だが、普段真面目な青葉があのような行動に出ることは滅多とない。真面目な青葉なら、もっときちんとした言葉で礼儀正しく告白するだろう。
なら、あの「ごめん」の意味は一夜の過ちに対するものではなく、まともな手段をとれなかったことに対する「ごめん」なのではないだろうか。
所詮憶測だ。青葉の気持ちを図ることなどできないが、全くない可能性ではない。ただ、今までの青葉を見てそうではないかと思っただけだ。
綾芽は未読のままにしていた青葉のメッセージをようやく開いた。そこには綾芽を気遣う言葉と、会いたいという言葉が何度も書かれていた。
忘れてくれ、なんて一言も書かれていなかった。
綾芽は木曜休みを取り、あの公園に向かった。たった数週間行かなかっただけでもずいぶん久しぶりに思えるものだ。
日差しは少し弱まっただろうか。木漏れ日の中を歩きながら、綾芽はあのベンチを探した。
ベンチにはまだ誰も座っていなかった。青葉の休憩は十二時からだから、まだもう少しだけ時間がある。綾芽はベンチに座って待つことにした。
このベンチに座ってもう何度目だろうか。かつて青葉と共に過ごした日々に想いを馳せた。
青葉との出会いはよく分からない。もう一つの仕事をしているときに声を掛けられたことから始まった。青葉はその時から真面目で律儀だった。丁寧で真面目な青葉の印象は悪くなかったが、どうにも慣れなくて最初は随分イライラしたものだ。
戸惑うことはあったものの、青葉のことを好きになるのにそれほど時間はかからなかった。青葉の真面目な部分や愚直な部分は、彼を信じられる理由だった。疑うようなことが起きても、青葉の行動を思い起こせば嘘ではないと信じることができた。
今回も、青葉の真面目さゆえに発言してしまったことなのだろうか。
数十分待つと、向こうに人影が見えた。その人影は一度だけ止まると、再びゆっくりと綾芽の方に向かって歩いた。綾芽は横目で見たそれが待っている人物であることを確かめるために視線を向けた。
久しぶりに見た青葉の顔は、なんだかやつれているように思えた。日陰にいるせいだろうか。それとも久しぶりに会うからか。一度目を合わせると、青葉は黙って綾芽の隣に腰を下ろした。
それから二人はしばらく黙ったままだった。綾芽は青葉から切り出すのを待っていたし、青葉もそのようだった。どれくらいか時が経って、ようやく青葉が口を開いた。
「俺から、喋ってもいいか」
綾芽は返事しなかったが、その間をイエスと捉えたようだ。青葉は話始めた。
「どう言えば伝わるか分からなくて……いろいろ悩んだんだ。俺は口がうまくないから、立花さんを失望させるかもしれない」
────立花さん。
いつもそう呼ばれていたはずなのに、綾芽はその言葉を聞いてあの夜のことを思い出した。
あの夜、確かに青葉は自分のことを「綾芽」と呼んでくれた。だが、青葉は酔っていたのか、朝になってその呼び方は元に戻っていた。それもショックを受けた原因の一つだ。
「今更弁解するつもりはない。俺が君にしたことは事実だし、否定もしない」
わかっています、と小さな声が漏れた。自分の声が震えているのが分かった。青葉にとっては一夜の過ち。それ以上でもそれ以下でもない。あの言葉も、その場の雰囲気に流されただけだったのだ────。
「それも併せて聞いてくれ。俺は酔ってなんかない。酒の力を借りたことは確かだけど、あの夜のことは全部覚えてる。立花さんに言った言葉も嘘じゃない」
「嘘……っ!」
綾芽は思わず否定した。そんなわけがない。青葉は優しいから、そう言って責任を取ろうとしているだけだ。青葉の性格でなかったことにしてくれなんていうわけがないのだ。
綾芽が見つめると、青葉は自分と同じくらい悲しそうな目をした。
「俺だって本当は、もっと格好よく言うつもりだった。立花さんの気持ちに確信が持てたらと思ってた。けど、そんなに余裕じゃいられなかったんだ。俺と君は違い過ぎる。歳も離れてるし、育ってきた環境も違う。君に選んでもらえる自信がなかった」
「何を言ってるんですか……あなたは、選んでもらう方じゃありません……っ。青葉さんはいつだって親切で、完璧で……私の方がずっと、釣り合ってなかったんです……」
「……それは俺がそう見せてただけだよ。立花さんは俺が失敗してるところ散々見てるだろう。俺は融通が効かないただの頑固で真面目が取り柄の男だ。女性の扱いも分からなくて、一番大事な人間を泣かせたんだ」
青葉は突然綾芽の手を握った。あの時と同じように、ぎゅっと力強く。
「俺が謝ったのは、ちゃんとした手順で君に告白できなかったからだ。一緒にいたことを否定するためじゃない」
ごめん、と青葉は頭を下げた。綾芽はまた幻を見たような気分になった。
これは夢だろうか。また夢だったら、今度は本当に立ち直れなくなってしまう。もうあんなことは何度と起きて欲しくない。
青葉は許しを乞うようにずっと頭を下げていた。青葉は器用そうなのに、不器用なことばかりだ。出会った時からそうだ。相手のことを思うがあまり、そのことばかり考えてしまうところがある。それだけとても純粋な人なのだ。
綾芽は握られた手にそっともう片方の掌を乗せた。
「『ごめん』、なんて……もう謝らないでください。私は青葉さんと一緒にいて、とても幸せだったんですから」
青葉と一緒にいると自分の醜い部分が露呈されるようで嫌だったこともあった。けれど青葉はそんな自分と一緒にいてくれたのだ。こんなにも違う自分達なのに、いつも楽しそうに笑ってくれていた。その顔を見ると、まるで陽だまりの中にいるように心地良かった。
「綾芽さん」
「……はい」
青葉はもう一度その名前で呼んだ。綾芽は思わず体が弛緩した。
「俺と、付き合ってもらえませんか」
真剣そのものの瞳に、綾芽は泣きそうになった。すると今度は青葉の方が悲しそうな顔をした。今彼の頭の中では振られる想像をしてるのかもしれない。そんなこと、あるわけがないというのに。
「私は、十五歳も年下なんですよ」
綾芽は確認するように尋ねた。
「知ってる」
「借金だってしてます。青葉さんとは生活が違いすぎます」
「知ってる」
「あの受付嬢の人みたいな完璧な存在じゃない……なんの取り柄もないんです……」
「違うよ」
青葉は即座に否定し、綾芽の涙を拭った。今度は躊躇しなかった。
「君は、俺にとって尊敬できる人だ。ハッキリしてて、前向きで、努力家だ。俺にはないものを持ってる。何もなくなんかない」
これだけ言葉がポンポン出てくるのなら、あの時もっとうまい言葉をかけてくれればよかったのにと少し呆れたが、それも真面目さゆえだろう。そしてそれが、信じられる理由だった。
「────一つ、お願いがあります」
「……なんだ?」
「俊介さんって……呼んでも、いいですか。呼んでもいいなら────」
青葉の腕がギュッと音が立ちそうなくらい強く抱きしめた。青葉の体に押し付けられて、少し苦しい。けれど、幸福だ。綾芽はそっと青葉に体を預けた。
「いいよ。だから俺も、綾芽って呼ばせてくれ」
その言葉の返事に、綾芽はゆっくりと背中に手を回した。青葉の────いや、俊介のように抱きしめて、「はい」と小さく呟いた。