交際期間0時間の花嫁 ――気がつけば、敏腕御曹司の腕の中――
* * * * *

 扉を開け、私は小さな声で挨拶した。

「ただいまぁ」

 とはいえ、応えてくれる者はいない。この家の主、長瀬さんは今ニューヨークにいて、明日まで帰ってこないのだから。

 照明をつけると、今度はため息が零れた。いつものことだが、目の前に広がる室内の様子に圧倒されてしまったのだ。ここで暮らし始めて数日が過ぎたが、慣れることなどできそうもなかった。

 もともと三階建ての低層マンションだから、星屑を散らしたような夜景が見えるわけではない。しかし大きな公園のそばなので、窓の外にはまるで高原にいるかのように深い緑が広がっている。初夏になったら、きっとすごく気持ちいいだろう。

 それでいてロケーションは都心の最寄り駅から徒歩八分。コンシェルジュがいるエントランスは一流ホテルのようにきらびやかで、「お帰りなさいませ」とにこやかに声をかけられるたびに緊張してしまう。

 共用部分の廊下や中庭も広く取られているし、間取りは三LDKだが、リビングだけでも三十畳ほどあって、ちょっとした会議室ほどの広さだ。さらに収納スペースも豊富だし、建具も豪華で、文句のつけようもなかった。

 しかし、だからこそ落ち着かない。

 坪単価はおそらく八百万円程度、総額では三億を超えているはず――仕事で使うため宅地建物取引士の資格を持っているから、私はつい不動産評価をしてしまう。
 自分がそんな場所で暮らしていると思うと、リラックスできるはずがなかった。

(家に帰りたいなあ)

 けれどここに住むことも長瀬さんとの契約に含まれているから、勝手な真似はできないのだ。もちろん誰かに見張られているわけではないけれど。
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