交際期間0時間の花嫁 ――気がつけば、敏腕御曹司の腕の中――
「あーあ」

 そんな自分にあきれて、思わずため息が零れた。

 とにかく予想外の展開だったから、こんなことになってしまったけれど、状況に納得しているわけではないのだ。だから今夜も、細かいことは由貴たちに話せないままだった。

 挙式こそしたものの、婚姻届けは出していないし、結婚指輪もしていない。私と長瀬さんとは花婿に逃げられてしまった花嫁と、ピンチヒッターになった花婿のいとこという関係でしかない。もちろんこれから先も、それが変化するとは思えなかった。

 ピクルスの世話を頼まれたのは一週間――明日にはニューヨークでの残務整理や、もろもろの手続きを終えて、長瀬さんが帰国する。

「そしたらお別れだね、ピクルス」

 私はオリーブグリーンの葉を撫でながら、これでようやく軌道修正できると思った。

 圭介さんの消息はわからないままだけれど、とりあえず長瀬さんとの契約結婚は解消して、もとの落ち着いた生活に戻るのだ。そう、「石橋を叩いて、それでも渡らない」と、みんなから笑われる私らしく。

「ほんとにどうかしてたもの、あれからずっと」

 思わず苦笑いして、肩を竦めた時だ。ふと、さっき聞いた由貴の言葉が思い浮かんだ。

 ――長瀬リアルエステートの人だから。

 ふいに、胸の奥が鋭く疼いた。確かに由貴は間違っていなかったのだ。

(……やだ)

 長瀬リアルエステートーーずっと憧れ続け、そこで働くことを夢見た世界。勇気を出せば、もしかしたらたどり着けたかもしれない場所。

 封印していたはずの過去の記憶が私の中で揺らめき始める。

「ううん!」

 私は慌てて、強くかぶりを振った。

「そんなはずない。きっと無理だったもの!」

 急に速くなった鼓動を静めたくて、動揺した時にいつもするように目を閉じた。一から十五までゆっくり数えて、大きく息を吐く。

(うん、平気。大丈夫)
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