交際期間0時間の花嫁 ――気がつけば、敏腕御曹司の腕の中――
 けれど長瀬さんの方はいつまでもうろたえてはいなかった。素早く視線を外し、何度かかぶりを振りはしたが、笑みを浮かべて立ち上がったのだ。

「やれやれ言ってくれますね。心臓が止まるかと思った」

 それまでの重い空気を打ち消すような、いやに明るい口調――もう声も裏返っていないし、どもってもいない。どうやら長瀬さんは無理にでも方向転換するつもりのようだ。

 だが口角を上げ、笑顔を作っているのに、なんとなく不自然に見えるのはどうしてだろう? 
 
「みずほさん、そういう冗談を気軽に口にしてはいけませんよ。危険です」

 もちろん私も彼に同調すべきだった。そうすればこの妙な雰囲気も変わって、何も起こらないとわかっていたけれど――。

「こんなこと、冗談で言ったりしません」

 瞬間、長瀬さんが大きく目を見開いた。彼と視線を合わせながら、私もゆっくり立ち上がる。

 自分が何をしているかはちゃんと理解していた。それまでの私なら絶対避けてきた方向へ進みかけている。石橋をさんざん叩いて結局渡らずに生きてきたのに、今は思いきり不安定な吊り橋に一歩踏み出し、そのまま走り始めようとしているのだ。

 だけど、どうしても自分を止められない。そうしなければ、何かとても大切なものを失ってしまうような気がした。

「私は……帰りたくありません」

 その後、どちらがどう動いたかは覚えていない。それでも気づいた時には、私は広い胸にしっかり抱き込まれていた。
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