恋愛タイムカプセル
そこまでは声に出さなかったが、彼は分かったのだろう。彼の表情に影が落ちる。
「俺は王子様じゃないって言ったの、覚えてるよね」
「……うん」
「これを聞いたら朝陽は俺を軽蔑するかもしれない。それでも聞きたい?」
そんなふうに聞かれたら迷ってしまう。
けれど私はいつの間にか、そこにある恐怖よりも好奇心。いや、彼に対する思いが優っていた。彼が話す真実の中に恐ろしいものがないと安心し始めていたのかもしれない。
「聞かせて」
彼は小さな声で分かった、と答えた。
「高校の時、俺人間不信だったんだ。そんな深刻なものじゃないけど、人が信じられなかった。ゲームみたいに告白して来る女子も嫌だったし、俺が食べてたものまでいちいち噂してる奴の気が知れなかった。朝陽のことは好きだったけど、朝陽が周りの女子みたいに俺のこと《《うわべ》》だけで見てるかも知れないって疑ってた。そんな時に、紺野さんに告白されたんだ」
「なぎさちゃん……?」
「紺野さんは粘着質じゃなくて、割とさっぱりした子だなと思った。他の子みたいに付き纏ったりしないし、俺といつも一緒じゃなくても怒らない。言い方は悪いけど、俺にとって都合がいい相手だった」
「そんな……っなぎさちゃんのこと好きだったんじゃないの!?」
彼の言い様に私が怒ると、彼は自嘲するような笑みを浮かべた。
「好きじゃない。彼女はただ、利用しただけだ。ひどい男だろ」
「なんでそんなこと……」
「朝陽の気持ちを確かめたかったから」
疑うような一言だった。私は何もかもが突然のことで、反応しきれなかった。彼の葛藤も、淀んだ気持ちも、全然知らなかった。私は《《綺麗な春樹くん》》しか知らなかった。
「俺の中で朝陽の記憶はずっと止まったままだ。君が変わっていたらもう諦めようと思った。子供の時の思い出なんてすぐ忘れると思ったんだ。どうせ俺しか覚えてない。俺は紺野さんと付き合って表向きには彼女が出来た。そうして君がどんな顔をするか見たかった。君は、笑ってたよ。多分同じ部の人が俺と付き合って複雑だったんだと思う。それでも俺には笑ってた」
「……そう、だね」
────それは、そうするしかなかったからだよ。私は心の声を押し殺した。
嫉妬の感情を表には出せない。嫌な子だと思われたくなくて、笑うしかなかった。
「でもさ、結局俺は満足出来なかったんだ。朝陽にどんな顔をして欲しかったのか分からないけど、自分がやったことが大して意味がないことだってことは分かった。紺野さんもさ、俺がみんなといる時と全然違うから驚いてたよ。俺も最初は適当に合わせてたけど、すぐに飽きられたんだ」
「じゃあ、どうして同窓会の時彼女と話そうとしたの……」
「朝陽に余計なことを言おうとしてただろ」
「余計なことって……!」
「余計なことだよ。俺にとってはあのくだらない噂も、君が負い目を感じることも、全部余計だ。紺野さんは俺が朝陽のこと好きって気付いてたと思う。別れる時、言われたから」
信じられないような気持ちだった。今私が見ている彼は、いつもの彼ではない。彼にこんな一面があったなんて、今までちっとも気が付かなかった。
いや、見ないようにしていただけなのだろうか。彼はこうした負の一面をずっと持っていた。ただ私たちが「王子様」なんて呼んで、目を背けていただけで────。
「……なんて」
「『なんで朝陽が好きなのにあの子と付き合わないの』って。彼女、俺の魂胆までは読めなかったみたいだから、俺が途中で飽きて朝陽を好きになったと思ったらしい」
その時、私はなぎさちゃんに言われた言葉を思い出した。
────そっか。だからなぎさちゃん、あの時あんなこと……。
彼女の言動の数々が蘇る。なぎさちゃんは本当は、分かっていたのかもしれない。だからわざわざ、私にあんなことを言ってきたのだ。
「けど結局意味なんてなかった。別れたのに朝陽は噂を気にして俺に近づかなくなった。元はと言えば俺が身勝手なことしたせいだって分かってるけど、これ以上君が傷付くと思ったら、俺もそれ以上は出来なかった。それから卒業しても俺はあんまり変わらなくて、適当に大学生して、就職したけど、特別面白いことなんてなかった。司書になって、あの図書館に勤め始めて────。そんな時だったんだ」
彼はやっと顔を上げて、私の瞳を見つめた。
「朝陽が連絡をくれた。最初はすごく驚いたよ。俺のことなんてもう忘れてると思ってたし、高校の時から一度も連絡してなかったから。けど突然すぎて、なんか変だと思った」
「あれは、その……」
「理由はどうあれ、朝陽から連絡が来て俺は嬉しかった。ただ、俺は腐ってたままだったから、君が《《そうじゃない》》確信が欲しかった。だから見た目を変えて会いに行った」
「じゃあ、あれは演技だったの……?」
「そう。それぐらいで君が引くなら、それまでかなって思ってた。けど君は普通に話してくれたし、昔の俺のことも覚えてた。俺に会いに来たかどうかはともかく、図書館にも来てくれた。だから俺も、もしかしたらって思ったんだ。久しぶりに会うのに朝陽はちっとも変わらなくて、明るかった。俺はあんなひどいことをしたのに敢えて何も言わないでくれた。だからもう一度信じてみようって思えたんだ」
ようやく私の中の壊れたパズルが繋がり始めた。
まだ記憶に新しいその思い出を目蓋の裏に描いて、春樹くんの姿に色を付ける。モノクロの世界が徐々に色味を帯びて、生き生きとした感情がそこに輝いていた。
私の中にあった「恋」という感情。春樹くんを「愛しい」と思う感情。それがそんなに以前から繋がっているなどとは思わず、感極まって涙が溢れる。
「朝陽……ごめん。傷付けるつもりじゃなかったんだ。俺は君を信じたかった。一番最初に会った君が優しかったから、まだその君がいるって信じたかった」
「……春樹くんが思うほど、私、優しくないよ。高校の時……なぎさちゃんから春樹くんと別れようって思ってるって話を聞いた時、あなたにそれを言おうとしたの。二人が別れればいいって、思ってた」
「……けど、言わなかった。どうして?」
「春樹くんが、悲しむと思ったから……それに、告げ口して、嫌われたくなかった」
「君は優しいよ。それに俺と違って強い。だからこうやって俺に会いに来てくれた」
彼の手が私の手を取って、そのまま引き寄せられた。壊れ物でも扱うみたいに抱きしめられて、私より十センチほど高い位置にある顔がそっと首筋に埋まる。
「俺のこと……嫌いになった……?」
悲しそうに呟かれると、まるで母親において行かれそうになった子供みたいに見えてしまう。この彼も、見たことがない。
けれど私の中には嫌いなんてものとはまるで逆の感情ばかり浮かんでいる。
どうしてもっと早く、彼が苦しんでいることに気付いてあげられなかったのだろう。彼の苦しみに拍車をかけるようなことばかりして、理想を押し付けていたんだろう。彼のことをもっと理解していればこんな回り道をせずに済んだのに……。
私は彼を抱きしめ、思いの丈を告げた。
「何年も好きだったのに、こんなことで嫌いにならないよ」
彼は安心したように顔を上げると、そのままゆっくりと顔を近付けた。いつかみたいな強引なものではなく、もっと柔らかい口付けを私に落とし、また隠れるように首筋に顔を埋める。
「困ったな」
「どうして?」
「朝陽と両思いになれた」
隠れたままの彼がそんなことを言うものだから、私は恥ずかしくなってなんて答えようか迷った。
私達はもう二十五歳なのに、子供みたいに恋愛して、相手の言葉に一喜一憂している。
すっかり大人になっていたと思っていた彼もこんなことを言うのだ。それはこそばゆいのに、嬉しい成長だった。
「俺は王子様じゃないって言ったの、覚えてるよね」
「……うん」
「これを聞いたら朝陽は俺を軽蔑するかもしれない。それでも聞きたい?」
そんなふうに聞かれたら迷ってしまう。
けれど私はいつの間にか、そこにある恐怖よりも好奇心。いや、彼に対する思いが優っていた。彼が話す真実の中に恐ろしいものがないと安心し始めていたのかもしれない。
「聞かせて」
彼は小さな声で分かった、と答えた。
「高校の時、俺人間不信だったんだ。そんな深刻なものじゃないけど、人が信じられなかった。ゲームみたいに告白して来る女子も嫌だったし、俺が食べてたものまでいちいち噂してる奴の気が知れなかった。朝陽のことは好きだったけど、朝陽が周りの女子みたいに俺のこと《《うわべ》》だけで見てるかも知れないって疑ってた。そんな時に、紺野さんに告白されたんだ」
「なぎさちゃん……?」
「紺野さんは粘着質じゃなくて、割とさっぱりした子だなと思った。他の子みたいに付き纏ったりしないし、俺といつも一緒じゃなくても怒らない。言い方は悪いけど、俺にとって都合がいい相手だった」
「そんな……っなぎさちゃんのこと好きだったんじゃないの!?」
彼の言い様に私が怒ると、彼は自嘲するような笑みを浮かべた。
「好きじゃない。彼女はただ、利用しただけだ。ひどい男だろ」
「なんでそんなこと……」
「朝陽の気持ちを確かめたかったから」
疑うような一言だった。私は何もかもが突然のことで、反応しきれなかった。彼の葛藤も、淀んだ気持ちも、全然知らなかった。私は《《綺麗な春樹くん》》しか知らなかった。
「俺の中で朝陽の記憶はずっと止まったままだ。君が変わっていたらもう諦めようと思った。子供の時の思い出なんてすぐ忘れると思ったんだ。どうせ俺しか覚えてない。俺は紺野さんと付き合って表向きには彼女が出来た。そうして君がどんな顔をするか見たかった。君は、笑ってたよ。多分同じ部の人が俺と付き合って複雑だったんだと思う。それでも俺には笑ってた」
「……そう、だね」
────それは、そうするしかなかったからだよ。私は心の声を押し殺した。
嫉妬の感情を表には出せない。嫌な子だと思われたくなくて、笑うしかなかった。
「でもさ、結局俺は満足出来なかったんだ。朝陽にどんな顔をして欲しかったのか分からないけど、自分がやったことが大して意味がないことだってことは分かった。紺野さんもさ、俺がみんなといる時と全然違うから驚いてたよ。俺も最初は適当に合わせてたけど、すぐに飽きられたんだ」
「じゃあ、どうして同窓会の時彼女と話そうとしたの……」
「朝陽に余計なことを言おうとしてただろ」
「余計なことって……!」
「余計なことだよ。俺にとってはあのくだらない噂も、君が負い目を感じることも、全部余計だ。紺野さんは俺が朝陽のこと好きって気付いてたと思う。別れる時、言われたから」
信じられないような気持ちだった。今私が見ている彼は、いつもの彼ではない。彼にこんな一面があったなんて、今までちっとも気が付かなかった。
いや、見ないようにしていただけなのだろうか。彼はこうした負の一面をずっと持っていた。ただ私たちが「王子様」なんて呼んで、目を背けていただけで────。
「……なんて」
「『なんで朝陽が好きなのにあの子と付き合わないの』って。彼女、俺の魂胆までは読めなかったみたいだから、俺が途中で飽きて朝陽を好きになったと思ったらしい」
その時、私はなぎさちゃんに言われた言葉を思い出した。
────そっか。だからなぎさちゃん、あの時あんなこと……。
彼女の言動の数々が蘇る。なぎさちゃんは本当は、分かっていたのかもしれない。だからわざわざ、私にあんなことを言ってきたのだ。
「けど結局意味なんてなかった。別れたのに朝陽は噂を気にして俺に近づかなくなった。元はと言えば俺が身勝手なことしたせいだって分かってるけど、これ以上君が傷付くと思ったら、俺もそれ以上は出来なかった。それから卒業しても俺はあんまり変わらなくて、適当に大学生して、就職したけど、特別面白いことなんてなかった。司書になって、あの図書館に勤め始めて────。そんな時だったんだ」
彼はやっと顔を上げて、私の瞳を見つめた。
「朝陽が連絡をくれた。最初はすごく驚いたよ。俺のことなんてもう忘れてると思ってたし、高校の時から一度も連絡してなかったから。けど突然すぎて、なんか変だと思った」
「あれは、その……」
「理由はどうあれ、朝陽から連絡が来て俺は嬉しかった。ただ、俺は腐ってたままだったから、君が《《そうじゃない》》確信が欲しかった。だから見た目を変えて会いに行った」
「じゃあ、あれは演技だったの……?」
「そう。それぐらいで君が引くなら、それまでかなって思ってた。けど君は普通に話してくれたし、昔の俺のことも覚えてた。俺に会いに来たかどうかはともかく、図書館にも来てくれた。だから俺も、もしかしたらって思ったんだ。久しぶりに会うのに朝陽はちっとも変わらなくて、明るかった。俺はあんなひどいことをしたのに敢えて何も言わないでくれた。だからもう一度信じてみようって思えたんだ」
ようやく私の中の壊れたパズルが繋がり始めた。
まだ記憶に新しいその思い出を目蓋の裏に描いて、春樹くんの姿に色を付ける。モノクロの世界が徐々に色味を帯びて、生き生きとした感情がそこに輝いていた。
私の中にあった「恋」という感情。春樹くんを「愛しい」と思う感情。それがそんなに以前から繋がっているなどとは思わず、感極まって涙が溢れる。
「朝陽……ごめん。傷付けるつもりじゃなかったんだ。俺は君を信じたかった。一番最初に会った君が優しかったから、まだその君がいるって信じたかった」
「……春樹くんが思うほど、私、優しくないよ。高校の時……なぎさちゃんから春樹くんと別れようって思ってるって話を聞いた時、あなたにそれを言おうとしたの。二人が別れればいいって、思ってた」
「……けど、言わなかった。どうして?」
「春樹くんが、悲しむと思ったから……それに、告げ口して、嫌われたくなかった」
「君は優しいよ。それに俺と違って強い。だからこうやって俺に会いに来てくれた」
彼の手が私の手を取って、そのまま引き寄せられた。壊れ物でも扱うみたいに抱きしめられて、私より十センチほど高い位置にある顔がそっと首筋に埋まる。
「俺のこと……嫌いになった……?」
悲しそうに呟かれると、まるで母親において行かれそうになった子供みたいに見えてしまう。この彼も、見たことがない。
けれど私の中には嫌いなんてものとはまるで逆の感情ばかり浮かんでいる。
どうしてもっと早く、彼が苦しんでいることに気付いてあげられなかったのだろう。彼の苦しみに拍車をかけるようなことばかりして、理想を押し付けていたんだろう。彼のことをもっと理解していればこんな回り道をせずに済んだのに……。
私は彼を抱きしめ、思いの丈を告げた。
「何年も好きだったのに、こんなことで嫌いにならないよ」
彼は安心したように顔を上げると、そのままゆっくりと顔を近付けた。いつかみたいな強引なものではなく、もっと柔らかい口付けを私に落とし、また隠れるように首筋に顔を埋める。
「困ったな」
「どうして?」
「朝陽と両思いになれた」
隠れたままの彼がそんなことを言うものだから、私は恥ずかしくなってなんて答えようか迷った。
私達はもう二十五歳なのに、子供みたいに恋愛して、相手の言葉に一喜一憂している。
すっかり大人になっていたと思っていた彼もこんなことを言うのだ。それはこそばゆいのに、嬉しい成長だった。