君のことは絶対に好きにならない

 ただれている。
 頭を抱えながら起き上がり、隣でスヤスヤと寝息を立てる青年の、光に反射して輝く栗色混じりの黒髪を撫でながら、溜息をついた。

 本当に、ただれている。

吐き出した息からアルコールのにおいがして思わず顔を顰めた。そばにあったペットボトルを引き寄せ、キャップを開けて半分ほど飲んでから大きく息を吐く。

上条くんと寝た。記憶もしっかりと残っている。
仕掛けてきたのは向こうだけれど、拒めば事態がここまで転ばないことを知りながら、拒まなかったのは私だ。普段は冷静かつ理性的であるはずの彼が珍しく余裕を失っていた。それが悪い癖だと知りながら私は勝手に同情したのだ。余裕を失っていたのは私も同じで、そういうとき、あえて他人に優しくすることで多少冷静になれることを経験上知っていた。

そっとベッドから抜け出し、最初に下着、ブラジャー、キャミソール、ワンピースと順々に拾い集めて身につけていく。最後にホテルのドアに立ったとき、私はこの部屋に立ち入ったときと同じ格好になった。散らばったハイヒールに足を通し、身につけなかったストッキングと髪留めをバックにしまう。財布から1万円札を5枚ほど取り出し、テーブルの上に置いてから部屋を出た。

 土曜日の朝5時。朝の冷たく爽やかな空気が肌をかすめ、緩やかに吹く風が髪を遊ばせる。アパートに戻ったらまずはちゃんと化粧を落として、シャワー浴びて、それから……食欲は微塵も湧いてこないので、朝食はエスプレッソ・マキアートだけで十分だ。その苦味で少しは、ただれた思考もまともに戻るだろう。
秋の終わり、空を見上げるとそこは少しずつ明るみ始めていた。昨晩、なだれ込むようにホテルにチェックインしたのが夜中の1時。事に至り、眠りについたのが3時前。90分、しかも久しぶりにベッドで眠ることができた。ここ最近は警視庁のシャワールームと仮眠室とデスクを行き来するだけの生活を送っていたので、不意にもたらされた思いがけない休息だ。こうしてまともにアパートに帰られるのもおおよそ10日ぶりで、ここ最近着替えなんかはすべて上条くんや他の部下に取りに行ってもらっていた。

タクシーを留め、アパートの住所を告げる。
上条くんは、確か昨日で二徹目だった。なぜ別の課の私がそれを知っているのかといえば、彼がこの2日間明け方だろうが夜中だろうがお構いなしに、私の所属するサイバー課に出入りしていたからだ。
 まだ若手でありながらもその類稀なる優秀さからすぐに公安に配属され、今年で5年目。27歳という年齢を感じさせない鬼才を放つ仕事ぶりに、多くの人間が羨望や嫉妬や好奇で以ってその目を見張ったものだ。
 激務覚悟の公安警察の中で彼に与えられている任務は過酷を極めたものばかりだが、彼が弱音を吐くところを、昨晩を除けば私は一度も見たことがなかった。何人もの優秀な公安警察官が根上げてきたような潜入捜査でさえ、彼は顔色ひとつ変えずにこなしている。
課は違えど、先輩として彼の負担を少しでも軽減してあげられたらと思う反面、任せられるのは彼しかいないとも思う。それだけが身体を許した理由ではないけれど、ここ最近の任務から、負い目というものが全くなかったわけでもない。

「お願いです」

昨晩、終えた任務の報告と別業務のための連絡のために落ち合った彼は、ひどく疲弊した表情を浮かべていた。

「まだ帰らないでください」

弱々しい口調とは裏腹に、私を抱きしめるその腕の力強さに、思わず息を飲んだ。
雨の音がしていた。押し返そうとしてもビクともしない。当然だ。いくら公安に勤めているからといって、いくら彼の上司だからといって、女で、しかも技術班である私が力だけのフィールドに持ち込まれて敵うはずもない。

「今だけ、お願いですから」

 おずおずと彼の大きな背中に腕を回しながら、私は小さく息を吐き出した。
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