薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
序の幕 ひとり心中
バッシャーーーーーーーーン……
……ゴボッ……
はて、何やら派手な音より始まりましたが、
これより語るはおかしな男と女のお話にございます。
その年を元治だか慶応だかと呼んでいた頃の京。
五条大橋が跨いでいる賀茂川を、薄ぼんやりと月明かりが照らす夜です。
月のまなざしだけが頼りの暗い橋は人通りも普段まばらでした。
白とも銀ともつかぬ月光を、橋の下で水面(みなも)が
冷たく掬い取っております様は夢幻のごとく。
そんな景色を飛沫混じりに川の中から見たとあれば、
この世ならざるものにも感じられます。
ひとりの娘が身の上を儚み、橋の上から身を投げたのでした。
東海道四谷怪談に曽根崎心中、果てはロミオとジュリエットまで
古来より女が死ぬ芝居は数ございます。
しかしこのお話ではのっけからこの娘、命を捨てるようです。
(ああ、なんて綺麗なんだろう。悲しいくらい綺麗だ。)
(あのきらきらとした光の向こうで……きっと……楽に、なれ……る……。)
お紅(べに)が常世の最後と思って見た景色は、
そのようなものだったのでしょう。
彼女が橋の手すりをよじ登ってひと思いに飛び込んだのは、
ついさっきのことでした。
柔らかく織られた紬の着物は水を吸ってどんどん重たくなり、
人の生きる場所から暗い川底へ彼女を引っ張り込みます。
ところが優しくて残酷な月の眼差しをヌーッと遮る何か。
川上から流れてきたそれが、お紅のちょうど頭の上の水面を通りました。
(やだっ……死体だ!!なんて、なんて恐ろしい顔!!)
彼女の死出の旅を邪魔したのは、皮肉にも旅の先達だったのです。
頭の髷は乱れてうつ伏せでぴくりとも動かないまま、
無念そうな青白い顔がゆらゆらと揺れている。
服装まで見る余裕がお紅にあったか定かではありませんが、
水死体は袴に刀と侍のような格好をしています。
自分もあんな顔で死んでしまうのか。
土左衛門のおぞましさたるや、お紅が肝を潰すには十分でした。
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