薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「なかなかの器量よしやなあ。
嘘からまことが出るようなことも、あらしまへんか。」
「まことも、お琴もあるか。ねえったら、ねえんだッ。
ばあさん。住まいはもう入れんのかい。」
いらだつ蔵之進にも、お婆さんは柳に風が吹くように動じません。
この家へ来るあいだもすれ違う人たちは、あまり良い顔をしませんでした。
やくざ者が年端も行かぬ娘を連れているのですから、
いかにも訳ありな様子です。みな関わり合いを避けていました。
ところが徳太郎といいこのお婆さんといい、
蔵之進の周りには不思議と変わり者が寄ってくるようでした。
集まってくるのは彼の素性こそ知らないながら、
蔵之進が人を裏切るたちでないことを知る人々です。
「はいよ。急なことやし、掃除やらなんやらは
そちらさんでやってもらうことになるけれど。」
「だいたいの道具は買わずに済みますえ。
前の人のもんがそのまま残ってます。」
「屋根があって寝られりゃあ、それでいいんだ。
確か一番すみっこの戸だったはずだよな。」
「そうそう。突き当りの板壁、覚えてはるやろ。」
「あそこに進さんが、前の借り主さんを
頭から突っ込ませはったさかい。」
お婆さんは、ぞっとしない思い出をのんびりと語ります。
真っ白になった頭に細かい茜斑点の着物をしたこの人は、
優しい雰囲気よりもずっと肝がすわっているようでした。
「ちぇっ、余計なこと思い出さなくていいんだ。
ありがとよ。しばらく世話んならぁ。」
「ありがとうございます。とても助かりますお婆さん。」
「ええ、ええ。ほんまに祝言しはる時は、教えたってな。」
「これ、持っていき。ご飯の支度すぐには無理やもの。」
あらかじめ用意してあったらしく、
お婆さんが握り飯の包みをお紅に押しやります。
蔵之進の横に座っていたお紅は、しきりに頭を下げて感謝しました。
ひとまず中を見てみようと蔵之進が立ち上がりお暇をすると
お紅もそれに従って、土間でもう一度頭を下げてから新居に向かいました。