薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
世間の無情さを説かれたぐらいで、
納得できるなら苦労なんてしません。
蔵之進もお紅もそのまま会話をやめてしまいました。
お互いが正しいと譲ったわけでもありません。
どっちが正しいかなんて、彼らにもわからないのです。
胸の中の天秤が二人の意見のどちらかへちょっと傾けば、
人間は生きるか死ぬかを決める。元来そういう生き物なのです。
やがて焦げるような夕焼け空に染まった頃、
蔵之進の横にそっとお紅は何かを置きました。
「ん。」
さっきの今で返事のしようもなかった蔵之進は、
熊が鳴くようにうなるだけでした。
脇に置かれたのは竹の皮に包まれた、お婆さんの握り飯です。
お互い意見をぶつけ合ったからこそ腹も減ります。
お紅は自分の感じた空腹を、蔵之進も同じと思ったのでしょう。
彼女が包みの握り飯を一つとって、残りを寄越したのでした。
「おなか、すいていませんか。」
お紅がこわごわと様子を聞きます。
萎縮した相手に気を遣われてなお知らぬ顔を決め込むのは、
蔵之進も居心地が悪いようでした。
「食うよ。腹が減っちゃ戦もできねえ。」
「さっきは、すみませんでした。」
「蔵之進さんに理があるのだって、
本当にわかってはいるんです。」
お紅はまだ元気のない声でしたが、
気持ちはおさまっているようでした。
蔵之進は飯に一口かぶりついて、ぐいと飲み込みます。
「お前ぇの生き様だ。お前にしかわからねえことだってある。」
蔵之進は、少しばかり遠くを見るような表情で言いました。
「どこに居ようが収まりが悪いって奴が
たまに生まれてきちまうのさ。」
やはり自分の経験したことのように蔵之進がつぶやきました。
彼はお天道様に顔向けしにくい生き様をしてはいますが、
放蕩や乱暴の末に世間をはじき出されたのとも違うようです。