薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「やい、紅かえったぞ。」
「おかえりなさい。ご飯の支度、あとちょっとですから。」
河原から埃っぽい通りを抜けて、狭い路地にある長屋へ蔵之進は帰ります。
入り口の障子戸を開けたすぐ横の台所では、
お紅が漬物を切っている最中でした。
「そうかい。桶はあるか。体を拭いちまいてえ。」
この一週間、お紅はと言えば長屋の掃除や飯の世話のほか、
着物の針仕事などに精を出しておりました。
もともと里でもやっていた仕事ですから多少の勝手は知っています。
若い男と同じ屋根の下で過ごす、その点だけが違っていたのですが。
「お仕事、慣れましたか。」
「はん、くれぐれも見にきたりすんじゃねえぞ。」
すぐ外で、着物の上だけ裸になって蔵之進が手ぬぐいに水を含ませています。
障子ごしに声をかけたお紅からは、彼の裸体が黒い影法師になって見えました。
「家のことはさせてもらいます。
進さん、ずっと外で頑張ってもらっていますから。」
お紅はまな板の上で包丁をトントン動かしながら、
なるべく明るい口調で言いました。
朧月党の動きを知るどころか、逆に人相書きによって
自分たちが動けなくなっているのです。
追手におびえる日がいつまでも続くかも知れません。
せめて蔵之進の気分を滅入らせたくなかったのです
「その外での仕事だがな。まず飯だ。食ってから話してやる。」
「はい、ただいま。」
お紅は茶碗に飯を盛った横へ、きゅうりの漬物を添えます。
食器を乗せる膳もない質素な食事ではありますが
屋根の下で寝ることもかなわない状態だったのを考えると、
多少は前進したと言えるかも知れません。