薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「いちかばちかの勝負だ。今日は荒れるかも知れねえ。」
「どうぞ。あらかじめ伺っておりますよって。」
手紙を握りつぶした蔵之進は、はたして芝居小屋に駆けつけていました。
とにかく芝居小屋に姿を見せて、
焦れた朧月党がお紅へ危害を加えないようにする必要があります。
しかし目当ての書状を渡したからと言って、
彼女を無事に返す保証はありません。
蔵之進は朧月党が芝居に釣られた時の計画を少し変更しました。
それを芝居小屋の主に伝えたのが、先ほどの会話です。
白粉をばしばしと顔に塗り叩く蔵之進の手も力強く、
眉と目元に墨を凛々しく引きました。
「エエイ、この女(あま)め。我らの邪魔をしおってッ。」
「や、やっ。こやつの持っているもの。もしや。」
一方、舞台の上では浪人姿の役者たちが、
お紅と蔵之進の出会った夜そのままに朧月党の台詞をお紅の役にぶつけます。
「おかしな真似をすれば命はないぞ。いいか」
「こんな大根芝居みせくさって、書状さえ戻れば大根よろしく斬ってやる。」
客席で小声に話すのは本物の朧月党。
傍らに座らせた幸薄そうな娘はまぎれもなくお紅です。
舞台上の蔵之進に人質の無事を伝えるとともに脅迫するには、
好都合の場所なのでしょう。
彼らは芝居の終わった頃合いに小屋の裏へ周り、取引をするつもりでした。
ところが普段は浪人役に混じっているはずの蔵之進は、まだ舞台に現れません。
「おおかた、命惜しさに逃げたのだ。」
「女め、きさんの啖呵も空振りじゃ。浅知恵じゃったのう。」
朧月党は口々に蔵之進をだしにお紅をあざけります。
さてどうする、娘など荷物だ斬ってしまおうなどと
もう終わったことのように彼らが話しているのが
お紅にはにわかに悔しくなりました。