薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「やめろ、やめろ。それを読むな。」
果たして、蔵之進との根比べで音を上げたのは朧月党でした。
彼らはすっかり色を失って冷静さを欠いています。
そして目先の危機に気を取られるあまり、
浪人たちは舞台へと弾かれたように駆け寄りました。
「わァ。なんやこいつら。田舎侍が邪魔すんなや。」
「喧嘩ですかえ。いいぞう。」
客席から乱入した身なりの悪い侍に、
役者や芝居を手伝う後見(黒子)たちも面食らいました。
けれどもともと威勢を売る仕事の人々です。
芝居に横槍が入っては黙っていられません。
朧月党の浪人を客席に蹴落とそうとしたり、てんでにもみ合ったり
本物の浪人と浪人の格好をした役者が入り乱れる騒ぎになりました。
見物していた客も最初こそ怯えたり呆気にとられたりしていたものの、
遠目に見るぶんには良い余興と判断したのか
乱闘を好き勝手に煽り立てる始末です。
小屋の中はたちまち荒事歌舞伎もかくやという、
大立ち回りが始まってしまいました。
「おのれこいつら、全員斬ってくれる。」
「おっと、させるか。竹光相手に真剣とは相変わらずだな。」
蔵之進はと言えば、朧月党の頭に血が上って刀を抜きそうになったやつから
相棒の煙管で腕でも頭でもしたたかにぶん殴っていきます。
ですから大事な顔に青あざをつくる不運な役者こそいましたが、
それ以上の怪我は芝居小屋の面々にも客にも、
もちろんお紅にもさせることはありませんでした。
「娘っ、手向かいするなっ。くそ、くそっ。」
「進さん!」
「女に二度の狼藉たぁ、つくづく見下げ果てた野郎どもだ。」
「鼻っ柱を潰して、おおいに薬としやがれっ。」
朧月党の最後のひとりは蔵之進に顔を蹴られ、
長屋でお紅を連れ去ったあの包帯男でした。
逃げようとしたその男の手を、お紅が両手でつかんで
必死で引き止めているのです。
蔵之進は裾をさばいて足を振り上げ、
包帯男をあの夜と同様に顔面を蹴り飛ばしました。