薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「何を。おはんの仕事、おいが常に見っとじゃろうが。」
「けんど、互いお役目がお役目にごつ。見(まみ)えるのも久しぶりじゃ。」
「そうですねえ。また稽古みてくださいよ。」
懐紙で刀の血をぬぐう徳太郎と話しているのも、薩摩藩士のようです。
徳太郎は江戸の薩摩藩の屋敷でずっと育ちました。
特徴的な薩摩の方言を話さないように、屋敷の一角で育てられたのです。
そうして正体を隠したまま、各地で藩のため暗躍するのが彼の任務でした。
「して、かの文。いかになった。」
「ああ、あれね。もう心配いりませんよ……。」
京の薩摩藩邸から徳太郎に命令がくだったのは、
お紅と蔵之進が出会うよりも前のことでした。
朧月党が斬った男は、もともと徳太郎が斬る予定の男だったのです。
ぐうぜん蔵之進から書状を見せられた徳太郎は、
事情を知る朧月党ごと秘密を闇に葬れる一計を提供しました。
あの芝居小屋も薩摩と通じていて、大したお咎めがなかったのは
藩のもっと上の誰かがはたらきかけた結果であると徳太郎は思っていました。
出入りする客の多い芝居小屋は、藩にとって貴重な情報源だったようです。
もっとも蔵之進が芝居を逆手に取って
ここまで派手にやるのは予想外のことです。
朧月党をおびき出す芝居こそさり気なく持ちかけたものの
今日になって、いちかばちかの博打に蔵之進が挑んだのですから。
そんな波乱こそあったものの、
いま事態が徳太郎の思う通りになろうとしていたのです。