薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「ようやく、こいつともおさらばだ。派手にやんなベニ公。」
「……はい。」
同じ頃、徳太郎とは別の賀茂川沿いでお紅と蔵之進が
橋にたたずんでいました。お紅は携えていた書状をゆっくり破り、
元の文字がわからないくらいばらばらにして川に撒いてしまいます。
「それで、さっきの話は……。」
お紅の心に今までのしかかっていた重石がようやく取れて、
一息つくと蔵之進と小屋の主のやり取りが思い出されます。
萬鳥屋。主はそう言っていました。どうやら役者の一門のようですが
それと蔵之進になんの関係があるのかは見当もつきません。
お紅から持ちかけたは良いものの、それ以上を聞きあぐねています。
散り散りになった紙が吸い込まれ、
夕日の橙色に輝く川面を眺めながら蔵之進が静かに語り始めました。
「萬鳥屋は役者の屋号さ。かつては江戸の三座にも上がってた。」
「ところが一門の看板役者、三代目木戸美三郎。
こいつが何を思ったか武家の娘と仲を通じやがった。」
お紅はぽかんとして話を聞いています。
身分違いの恋が簡単に認められるような時代ではありません。
まして、役者や芝居は風紀を乱すとしてお上の目の敵にされていたのです。
美三郎が名を売ったであろう天保の頃も、
芝居に対してお役人がそれはそれは口やかましいものでありました。
「女親は旗本の出でな。侍は何より体面だ。
そのお武家は世間様に不始末がばれないよう、身重の娘を屋敷に閉じ込めた。
生まれたガキは五つまで娘の親元で育てられてから放り出されたのよ。」
「萬鳥屋は美三郎の一件でお取り潰しになっちまったから
なすりつけるように入れられた木戸に縁のある家で
ガキは稽古に明け暮れてたが、ある日に嫌気が差して飛び出したのさ。」
かつて蔵之進が武家で育てられたとあれば、
武士の内情に詳しいのにも合点がいきます。
雀百まで踊り忘れずと言いますが厳しい武家の作法は蔵之進が備える、
そこはかとない品性を形作るひとつとなっているのでしょう。
「その飛び出した馬鹿なガキが、今ここで馬鹿みてえにしてる。」
そして蔵之進は、侍でも役者でもなくなってしまったのです。
お紅に今までの色々な蔵之進の姿が思い出されて、
そのひとつひとつが納得のいく輪郭を描いてゆきます。
この人は行き場のない旅をずっと続けていたのだ。お紅はそう感じました。