薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「野郎め、しゃあしゃあと舌ばかり回しくさる。」
「斬ってしまえ、斬ってしまえい。」
「かの書状ついでに貴様らの首も、我らが党の武勲のうちよ。」
三人の中で最初に刀を抜いていた一人が、
ざっと腰を落とし上段の構えで招かれざる客を睨みます。
握る得物は、備前のなにがしというあまり有名でない刀匠の作でした。
朧月党が同僚ふたりもやはり抜刀する。
彼らは、渡世人の男を中心に剣と人でできた囲いを作りました。
「は、世直しと血の気に当てられた“くち”か。迷惑千万。」
「侍だろうが仏様だろうが、地位に酔っ払ってんじゃねえや。」
さらさらと流れる川面、そして歯の根をかちかち鳴らすお紅を背にして
狼藉者の人となりに当たりをつけたらしき渡世人は、目尻を釣り上げました。
この男、侍という生き物がだいぶ気に食わないようです。
当時はかねてよりの不景気と社会の不安から、
上も下も尊王である攘夷であると影に日なたに争う頃合い。
尊王に佐幕に主張はそれぞれにあれども、
切った張ったで死人が出る町はぞっとしません。
朧月党もまた、帝(みかど)を頂くこの京で新たな世に奉仕するのだと
声も高らかに吹聴してあちこちから集まってきた侍どもであります。
もっとも、誰もかれもが志の高さより己の欲が勝っていたので
普段からこのように横暴さが目立つ連中でありました。
朧月党にかぎらずお金をせびるような真似をする者もいたものですから
そういう乱暴な侍に京の商家は時に悩まされ、
一方で強かにも商いのお得意様ともしたのです。
「つ、ええいッ。」
朗々とした掛け声で、朧月党のひとりが渡世人の額めがけて斬り込みます。
三人同時に突っ込んでは互いの刀がぶつかりかねない。
一手、二手と順繰りに襲いかかる算段なのでしょう。
浪士たちの粗暴な面持ちは、群れた野犬にも見えました。
「やい。娘っこ、手ぇだしな。」
「え、あ、ちょっと。」
が。やくざ者は迷いなく背中越しに声をお紅にかける。
揺るがない声は、迫る刀や悪意と戦う意志の強さを感じさせるものでした。
短い言葉だからこそ、人を信じさせる確かさを持つ時があります。
お紅はそのとき任侠者の、彼の先にある自らの運命に手を伸ばしたのでしょう。
渡世人は地べたから女を引っ張り上げると同時に、
致命傷になる刀の一撃を半身になってするりとかわす。
さらに自分の体を横向きにするついで、
斬りかかってきた浪士の手首を煙管の雁首でぴしゃりと叩きます。
「ア、いッた。」
木刀で殴られたような痛みに浪士がうめく。
この煙管は芯と頭が鉄造り。文鎮よりも硬く鍛えられた金属の重さがあるのです。
それが朧月党がひとりの手骨をぐわんとぶん殴った。
刀こそ落とさなかったものの、
たまらず浪士はたたらを踏んで川の浅瀬によろめくのでした。