薄暮刻偽夫婦(うすぐれどき にせのめおと)
「やれ、やれぃ。」「うおおッ。」
やくざ者に引っ張られたお紅の水で冷えた体に、暖かい壁がぶつかります。
渡世人の煙草の香りと胸が、お紅を受け止めているのです。
その間にも一斉に刀を振り上げるのは、面食らった朧月党の手勢。
続く二人目の浪士は、関東で主流となっていた神道無念流を学んだ身です。
三人の中ではもっとも腕に覚えがあり、
日頃から剣術の強さを周りに吹聴していました。
京で我ら朧月党の名を上げようと持ちかけたのも、この男です。
ところが、無念流使いの目の前に無造作に足が高々と蹴り上げられます。
下駄の歯で鼻っ柱を叩く、任侠好みの前蹴り。
剣の道では教えぬ乱雑な喧嘩の作法でした。
「ひゃああッ」
顔を強かに打ちのめされ、腕自慢の浪士がもんどり打ってしまいます。
甲高い悲鳴で転げ回るうちに鼻血も出ているようです。
浪士を蹴飛ばす間も、やくざ者はお紅の手を離すことはありませんでした。
「さァて、まだ痛い思いをするかね。」
渡世人が三人相手へ凶暴に微笑んで挑発しますと、そうこうするうちに
ピィーーーーーー、と鳴る呼子が乱戦の賀茂川をつんざきます。
人通りがほとんどない夜とは言え、今までの騒ぎを聞きつけて
捕り方が寄越されたのでしょう。
「退け、退けッ。」「貴様らの顔、覚えたぞッ」
「その書状、いずれ殺して奪う。
捨てようとも朧月党の矜持のため殺す。さらばっ。」
まっさきに逃走を号令したのは、先に二人をのされて
刀を振り上げたまま攻めあぐねていた浪士です。
彼の戦意が揺らいでいたのをごまかすにも、良い機会でした。
逃げ出すにも格好をつけないといけないのだから侍とは、苦労する人々です。
狼藉者の三人は、ササーッと河原町の方へと駆けて消えてしまいました。