唇を濡らす冷めない熱


『兄貴の奥さん、仕事も出来て作る料理も凄く美味いんだ。麗奈(れな)も見習えよ、俺の為に』
『うん、そうだね。でも、私も最近忙しくて練習する時間がなくて……』

 いつだったか、こんな事を言われた覚えがある。彼のお兄さんは銀行員らしくその奥さんがとても出来た女性なのだと何度も聞かされた。
 兄の嫁が羨ましい、お前はもっと頑張るべきだと。付き合いたての頃はそんな彼の我儘も可愛いところだと、いう事を聞いて頑張っていたのだけど。大学を卒業して就職したばかりの私には、あまり余裕がなくてついそう返してしまったのだ。

『はあ? お前は俺の為に頑張れないっていうの? それって相手の事を思いやれないってことだよな、麗奈は俺の事が好きなんじゃないのかよ』
『そういう訳じゃなくて、ただ私は……』

 大学時代からの付き合いだった元カレ、交際が始まった当初は凄く優しくて私の事も大事にしてくれた。強すぎる束縛も、私を愛してるからなんだという言葉を素直に信じて。
 だから私も出来る限り彼の為に頑張った、全力で尽くしていたと言ってもいいと思う。だけど……

『俺を愛してるんなら、もっと……』

 いつの間にか彼からの要求だけがエスカレートして、私は恋人ではなく彼の所有物になっていた。偶然そのころ彼が他の女性を気にするようになったことで、その状態から抜け出すことが出来たのだけど。
 どうして、今になって……? ゆらゆらゆらゆら、その夢の中を漂うようにあの頃の自分達を思い返していた。


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