惡ガキノ蕾 二幕
      ~凜の悩み~
 グラスを手に寝落ち寸前の一樹をなんとか二階に追いやって、お客さんの居なくなった座敷の明かりを落とす。きむ爺が帰った後、「今日は、はなみのとこに泊まって行くね」と話す凜の電話を耳に留めた優が、双葉を相手にあたしも泊めてと言い出して、閉店後のカウンタ―には、凜、優、双葉の三人が残った。暖簾を仕舞ったあたしも、何とはなしにカウンタ―の内側で丸椅子に腰を落ち着ける。何かあった気配は疾《と》っくに察している筈の双葉と優は、それでも凜に何か言葉を掛ける訳でも無く、薄明かりの留まり木で煙草の煙りが遊ぶのに委せているだけ。あたしも釣られてやる事にして、燐寸《マッチ》を擦ることにした。
 すると、一口目の煙りがあたしの口から出て行こうとする前に、優が口を開いて切っ掛けを作ってくれた。
「いいよね―凜は。律っちゃんみたいなお母さんが居てさ」
「優先輩だってお母さんは居るじゃないですか。それにうちには父親が居ないし…」
 残りの煙草を灰皿に押し付けて優が続ける。視線は手元に落としたまま。
「父親って言ったって、先月なんか帰って来た時顔見たのも一回だけだし、しかも何言い出すのかと思ったら、『出張に行くから鞄取りに来た』だって、出張じゃなくたって家に帰って来ないくせに普段は何やってんだつ―の。お母さんだってメ―ルと電話以外は口利いてないし、偶《たま》に家に帰って来たって、あたしが部屋から出て行かなかったら、顔も合わせないまま平気で出掛けちゃうしね。産んで貰ったんだから、あんなの親じゃないとは言わないけど、最近は家族って呼ぶのにちょっと抵抗感じるんだよね―」
 優がこんな話するのを聞いたのは初めて。やり場に困った視線を一先《ひとま》ず左手に挟んだ煙草に置いて、暫《しば》し優の胸の内を慮《おもんぱか》る。……駄目だ。何も出て来ない。元より、両親の居ないあたしに気の利いた事が言える訳も無く、それでも何か言ってあげたいと駄々をこねる我が儘な気持ちを持て余して、空いてる手にビ―ルの缶を握った。替わりに凜が口を開いてくれる。
「そういう意味じゃうちのお母さんは私の事心配してくれてますけど、でも最近、それに甘えてるだけじゃいけない様な気もしてて…。離婚してからもうそろゝ十年位経つんですけど、再婚とかしないのもあたしが負担になってるからなんじゃないかな、なんて感じる事もあって、あまり相談事とかもしない様にはしているんですけど…」
 でも…、と言い掛けたあたしに、凜は目で分かってると伝えて来る。確かに、でも…に続くのは、律っちゃん心配してたよだけど、本当に伝えたいのはね、あたしも心配してるって事なんだよ凜。
「なんかあったんだ―」と、何の感情も含ませない様に気を遣った優の言葉に、凜が重くなった口をもう一度動かす迄、あたしは放って置いた煙草に二度《ふたたび》口を付ける事になった。
 ──最初は今度三年生になる部長との練習試合で、凜は偶然と言ったけど、勝ってしまった事が始まりだったらしい。この時も部長本人と凜には、それが全ての実力でないって事は充分に分かり合えていたんだけど、収まらないのが、副部長とその取り巻き達だった。毎年三人選ばれる副部長の内の一人が、そのグル―プから選ばれずに凜に決まってからは、部内での凜に対するあからさまな嫌がらせが始まったらしい。此の嫌がらせに付いては、凜の口からそれ以上詳しい内幕が明かされる事は無かったけど、日が経つにつれ凜曰《いわ》く、そのちょっとした嫌がらせの他に、ネットの書き込みも増えていったと言う話だった。中には律っちゃんの事まで持ち出して貶《おとし》めている酷い物まで在ったと言う。そうこうしている処へ、この前の大会の後、"スポ―ツ推薦で授業料もまともに払って無いくせに"という書き込みを見付けて──
 そこ迄話すと、思い出したみたいにグラスを持った手を口許に運ぶ。聞いてるあたしはと言うと、あんまり腹が立って、会った事も見た事もない顔の無いそいつら全員並ばせて、端から一人ずつ丹念に頭突きを噛ましていたのだった。頭の中で。
 妄想に入り込み過ぎて、カウンタ―越しに差し出された優のグラスにも暫く気が付かなかった位。凜がこんな風に話すって事は、実際はもっと酷い事をされているのもあたしにはよく分かったから余計にね。
 ネットの書き込み。SNSって勿論、いい面もあるんだろうけど…。凜が目にしたそれは、不法投棄された生ゴミとか異臭を放つ汚物と何も変わらない、かなり最悪な部類に入る物だと思う。自分の顔も名前も晒さず、事実関係を自らの眼で確かめる事もせずに、遠くから大勢で一方的に石を投げつけるだけ。卑怯で醜くて残酷。悲しむべきは、そういう行為をあたし達と年のそう変わらない子供達までが楽しんでやっているという現実の悪夢だ。…全く、野暮ったいたらありゃしない。
「私もどうしたらいいかちょっと分かんなくなって……」凜がその視線を、置いてあるグラスに落とす。あたしの手からお代わりの入ったグラスを受け取った優が、何かを語り掛ける色の付いた眼差しを双葉に向けた。新しい煙草に火を点けた双葉は、優とあたしからの視線を塞《ふさ》ぐ様に煙を吹き上げると、淡々と感情を混ぜない声色《こわね》で話し始めた。
「知った人間の中だけで暮らしてるならそういう事も無いかも知れないけどさ、新しい場所で知らない人間と関われば何かしら…いい事だって悪い事だって、それ迄は想像して無かった事が起きるのは当たり前の事だよ。それは高校を卒業したって、大学に行ったって、社会に出てからだってね。何もそういう事がある度に闘わなくちゃいけないとか、真正面から話し合わなくちゃとか、そんな四角い事を言う心算《つもり》は無いんだけどさあ……。避けて通る道が無いなら関わって行くしかないんだ。そいつらに合わせてうまい事言ってみたり、機嫌を損ねない様にしたりとか、他にも遣り方は色々在ると思うけど…。
 でもね、凜。そういう遣り方が出来ないあんたには、時間も掛かるし、もしかしたら分かって貰えないかも知れないけどさ、自分を騙せないなら不器用でも今の遣り方しかないんじゃないの」
 一端言葉を切ると、優から受け取ったグラスで一度口を湿らす。凜は身じろぎもしないで双葉の紡《つむ》ぐ言葉に耳を傾けていて、その瞳には何も映していないみたいに見える。双葉と優の視線が凜に向けられる事も無い。
「…けど、もし闘わなきゃいけない相手が居るとしたらさぁ。そんな毎日の中で、今の自分をあんたがなりたくないと思ってる自分に変えちまおうとする、その気持ちとなんじゃない。それにね、凜。当たり前だけど、闘うなら弱い方が負けるんだよ」
 凜が瞼を閉じる。双葉の視線は指に挟んだ煙草から動かない。
「あと…、これはお節介だけど、心配掛けたくないなら、その想いだけは伝えてあげなよ。黙ってたって、律っちゃんが凜の事心配しなくなる事なんて無いんだから…。親の居ないあたしの言葉じゃ説得力無いだろうけど…」言って口をつぐむと、寂しそうに、でも優しく微笑んだ。あたしの眼の端に凜の頬を伝う一筋の泪が見えた。無意識の内に立ち上がってしまい、気不味《きまず》さから灰皿を新しい物に替える。あらぬ方向に目を向けた優と双葉が、同時にグラスを口に運んだ。
 控え目な犬の鳴き声が遠くに聞こえる。
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