惡ガキノ蕾 二幕
  ~H31.4.8 月曜日 翌朝、四人で~
 大根を刻む音の裏を打って外階段を降りて来る足音は、一樹とも双葉とも違うリズムを奏でている。ドアの開く音に合わせて裏口の方を振り返ると、顔を見せたのは凜だった。
「おはよう」少し腫れぼったい目を擦りながら、カウンタ―を回って来る。
「おはよう。ごめんね、起こしちゃった?」刻んだ大根と茎を出汁の入った鍋に入れる。
「早いねはなみ。いつもこんな時間から仕事してんの?」
「んな訳ないでしょ。一樹のご飯作ってるだけ。後で昼寝するし…」
「へ―」と、欠伸《あくび》雑《まじ》りに凜が伸びをする。
 鯖の半身をガスレンジに入れてから、昆布茶の入った湯呑みを凜の前に置いた。
「ありがとう…。すごいね、はなみ」
「はあ?」すごい?まだ寝惚けてんのか?あたしの何処をどっから見たら、そんな台詞が出て来んだ?昨日の今日で未だ精神状態が不安定なんだろうなあと分析したあたしは、そのまま放っとく事にして、鍋の相手に戻る。
「凜、朝ご飯食べちゃう?」味噌を溶かしながら時計に目を遣ると、もうそろ六時。
「双葉先輩とかは?」
「あ―どうだろう?今日は優も居るから食べるんじゃないかな…。じゃあそん時一緒に食べる?」
「うん、そうする」
 ボ―ンボ―ン…と、おんぼろ時計が六度目の鐘を打ち終わる前に一樹が裏口のドアを開いた。
「おはようごンザレス」
「お早う御座います」律儀に立ち上がった凜に微笑みかけて、一つ空けた椅子に腰を下ろす。ふと、昨日の凜の話しに一樹ならなんて答えるのか気になったあたしは、成る可《べ》く軽い調子になるように気を付け声を掛けてみた。
「ねえ一樹」
「ぁん?」
「もし…、もしさぁ、覚えの無い事とか、的外れな事で一樹の事を悪く言ってる仲間が居てさ、…だけど、それが誰だかはっきりと分かんない。みたいな状態だったら、一樹どうする?」
「あ?そんな事ある訳ねえよ」
「なんで?ふつ―にありそうでしょ」
 あたしの言葉に我が兄は眉間に皺を寄せて見せる。
「俺の仲間だったら文句が有るなら有るで、先ず面と向かって言って来んだろ。陰でああだこうだ言ってみたり、はっきりしねえ野郎なんてそんなもん端から仲間でも何でもねえじゃねえか」
 あ―成る程、流石《さすが》。シンプル。単純でいいわ…って、納得してる場合じゃないので、もう一頑張り喰い下がってみた。
「いやゝ、それでもそういう人達を仲間としてやって行かないといけない時が在ったとしてって事だよ」
 眉間に刻まれた皺がクッキリと濃くなる。
「なんだかややこしい話だな…う―ん…。まあ、でも俺だったらそいつら全員、そこから先一緒にやってくかやってかないかは別にして、一回はドロップキックだろうな、やっぱ。投げ技とか間接技より、なんつうか爽快感が違うつうか…。うん、間違いねえ。そんな時はドロップキックで決まりじゃね?」
 決まりじゃね?じゃね―し。誰が効果的なプロレス技聞いたんだつ―の。
「…ッハハハハハハッ!」
 昨夜うちに来てから、初めて飛び出した凜の抜けるような笑い声。長い付き合いのあたしでも久し振りに聴く明るく清々しいその笑い声に、気兼ねしていた朝の陽射しも、その強さを変えたみたいに感じられる。一樹の前に朝げが並んでも、凜はまだ笑っていた。
 一樹が出て行く直前に双葉と優が二階から降りて来て、座敷に女四人、食膳を囲む事にする。その食卓では何故だか、四人が四人共気恥ずかしさに似たものを感じている様子だった。考えてみると、それはあたし達のお互いを想う距離が思っていたよりも近かった事をあからさまにしていて、皆その事に気付いているのか、言葉少なに箸を動かしていた。
 律っちゃんが仕事に出る前に帰りたいから、と言う凜を途中まで送る事にして、あたしも一緒に家を後にする。普段、店を閉めた後にきむ爺と一緒に歩く堤防を二人で歩いた。別段、言葉を交わす事も無く、それでいて急ぐ訳でも無く。陽の下で見る川は夜のそれとは違って、近場に目を遣れば身勝手に捨てられたゴミや、工場や住宅からもたらされる汚水によって濁るに委せた流れの揺らめく様《さま》も当然目にする事になる。こんな世の中だから、目線は少し暈《ぼか》したり、離れた処に置いた方がいい事も沢山あるのかも知れない。けど…、それでも直面《まとも》にしか見れないし、気付かない振りをして生きて行く事が出来ない奴も居るんだ。あたしの周りには。
 交差点の手前、何方《どちら》からともなく「じゃあね」と口にする。あたしの方を見ようとせずに凜が言葉を繋いだ。
「色々ありがとね。心配させちゃったけど、吹っ切れたから。…私にとって何が大事なのかちゃんと思い出せたし、もう大丈夫」
 って、別にあたしは何もしてないけど…。でも今、隣で信号を見詰める凜は澄んだ空気を纏っていて、確かに何時もの自分を取り戻している様に感じられた。あたしの胸の中に在ったもやゝとした物も、すうっと晴れていくような気がする。
「水臭ぇ事、言ってんじゃね―ぞ」スカ―トなのでドロップキックとは行かないけど、凜のお臀《しり》に向かって強めの回し蹴りをくれてやった。
「いっ…たい!」笑いながら駆け出した凜が、横断歩道を渡って行く。
 振り返らないその背中が建物の陰に消えるまで、あたしはその場所から動かなかった。
< 4 / 29 >

この作品をシェア

pagetop