惡ガキノ蕾 二幕
~H31.4.13 土曜日
じいちゃんとサウナ~
平成の世も残り僅《わず》かと相成った四月十三日、週末。
──カラ・コロ・カラン
雨も降っちゃいないのに髪の毛を湿らせた男共が、心太《ところてん》式に店の入り口から溢れ出て来る。一樹、太一、力也、だんご。縺《もつ》れる様に暖簾を潜《くぐ》った、"順番に"という言葉を知らない騒がしいカルテット。開け放たれた引き戸から入り込む夜気に押され、嗅ぐだけでリラックス効果満点の石鹸の香りが店の中に拡がって行く。
「お帰り。銭湯寄って来たんだ?」
七時五分前。今日の口開けは、なんだかんだ言ってこの店一番の常連客のこの四人。詳細な内訳を言えば、一人が身内で三人が幼馴染み。
「みんな一緒で仲良くコンクリ打ちだったんだけどよ、終わり間際にパンクして、だんごが頭から生コン被っちまってな」一樹の言葉尻にみんなが笑い声を被せた。何故だろう?生コン被った張本人のだんごが一番愉しそうなのは?やっぱり莫迦《ばか》だからなんだろうか。可哀想に。
「ビ―ルくれよ」太一に言われて、一人に一つずつビ―ル壜《ビン》とコップを渡す。おんぼろ時計が鳴らす七時の鐘の音《ね》を合図にして、各々が勝手に飲《や》り始める。そんな四人をカウンタ―の中から煙管《キセル》片手に眺めていたきむ爺が、何を思い付いたのか嬉しそうに口を開いた。
「風呂って言やあ、前に一樹とはなみ二人してじいちゃんに銭湯に連れて行って貰った事があったろう、覚えてるかい?」
「ぁん?…あ―あったなあ…。あの時は確か…」と、そのエピソードを一樹がみんなに披露し始めたのを横目に、あたしはあたしで十年前の記憶の引き出しを探り始める。え―と……あっ、「あ―、帰る時きむ爺が迎えに来た時でしょ。そう言えば、そんな事もあったねえ…」
十年前のその出来事は、自分でも驚く程鮮やかな色彩を保って、今猶《なお》、あたしの中に在った。あたしときむ爺の会話が耳に届いた一樹が、話の途中でビ―ルを吹き出す。そう、あれは──
あたしが小学校の一年生、一樹が三年生になって間も無くという頃だった。学校で、ス―パ―銭湯に連れて行って貰ったと言う友達の自慢話を散々聞かされ帰って来た一樹が、じいちゃんを掴まえて、俺も連れて行ってくれとせがんだのがこの絵巻物のプロロ―グとなる。今でも変わって無いとは思うんだけど、当時ス―パ―銭湯と呼ばれるお風呂とサウナ、宴会場等《など》が一緒になった施設は、何処も決まって"刺青お断り!"が共通ル―ルだったのだ。これに困ったのがじいちゃんで、普段からあたし達の頼み事には首を横に振らないじいちゃんが、この時許《ばかり》は何時もの気っ風の良さはすっかり影を潜め、「あああ」だの「ううう」だの、形を成さない言葉を並べてはお茶を濁し捲っていた。「どかっ」と濡縁《ぬれえん》に胡座《あぐら》を掻くと、渋い顔を作って煙草を吹かす。なかゝ名案が浮かばないのか、灰皿に吸い殻を重ねては、収まりのつかない一樹を宥《なだ》めすかす。そんな風にして三十分も過ぎた頃だったと思う、晴れやかに顔色を変えたじいちゃんが勢い良く立ち上がったのは。
「よし!行こうじゃねえか」言うが早いか、不貞寝《ふてね》していた一樹が跳ね起き、雀躍り《こおどり》しながら支度を始める。あたしは"す~ぱ~せんとう"がどんな処なのか未だ良く分かっていなくて、剣道の練習から戻らない双葉はどうすんのかなァなんて、ぼんやりと考えていたっけ。それでもじいちゃんと一樹が支度を済ませて、さあ!いざ行かんと言う段になると、お出掛けする嬉しさに姉の事はすっぱりと頭から追いやって、にこゝ二人の後を付いて行く薄情なあたし。豪奢な構えの入口を抜けてあたし達は受け付けへと向かう。受け取った浴衣に着替えている時、じいちゃんが躰を隠すようにしてゴソゴソやっていたのも気にはなっていたんだけど、既《すで》に頭の中で"ス―パ―戦闘"と変換されたワ―ドの持つワクワク感にやられていて、双葉の事と同様、じいちゃんにも構っている余裕は無かったんだ。だって"ス―パ―戦闘"だよ、上がるでしょ。
実際には怪人に襲われる事も、派手な爆破に遭うことも無かったけど、ゲ―ムセンタ―、和洋中揃った食事と宴会場そしてカラオケ、休憩所には数え切れない量の漫画本。この世の楽園を見たあたしと一樹は、ゲ―ムセンタ―で遊び倒して、宴会場では食い倒れて、初体験の"ス―パ―戦闘"で思う存分倒され捲ったのだった。三倍速で時間は流れ、日もとっぷりと暮れた頃、小さな躰には不似合いな大きなソファ―で漫画本片手に休憩をしていると、銭湯本来の目的を思い出した一樹が、ここに来てやっと「風呂に入る」と言い出した。その時のあたしが、子供ながらに何時もと違う雰囲気をじいちゃんに感じたのは、今思うと錯覚ではなかったのかも知れない。
死地へと向かう兵士の如く厳しい顔付きのじいちゃんがゆっくりと席を立つ。
無言のまま後に続くあたしと一樹。"男"と書かれた暖簾を跳ね上げると、乱暴に浴衣を脱ぎ散らかして、一目散に浴場に入って行く一樹。「走ると滑って転ぶぞ」と言うじいちゃんの声にも一樹の足は止まらない。あたしも続いて浴場へと向かうと、幾つも並ぶ様々なタイプの浴槽の一つに一樹の姿を認めて、同じ湯船に躰を沈めた。ジャグジー風呂、ジェットバス、呼び名は色々有るんだろうけど、足下から細かな無数の泡が立ち上《のぼ》るそのお風呂は、子供だったあたしの肌にも心地いい刺激を与えてくれて、今までに体験した事の無い気持ち良さであたしを包んだ。躰中を被《おお》う数千、数万の泡が生み出す至福のひとときにうっとりしていると、浴場のガラス戸が引かれて、入って来るじいちゃんの姿が見えた。「!?」先《さっき》服を脱いでいた筈のじいちゃんが、何処に用意していたのか、全身を白装束に包んでいた。その格好のまま風呂場をゆっくりと進むじいちゃんの姿に、周りの大人達が何事かと動きを止める中、あたしと一樹も湯煙の中に目を細める。近付くにつれて、段々とその全容を現すじいちゃんの衣装。それは着物でも洋服でも無く、躰中に貼り付けられた大小様々、無数の白い湿布だった。尋常ではない数の湿布を隙間無く貼り付けたじいちゃんが、出来損ないの木乃伊《ミイラ》男みたいにゆっくりゝと歩いて来る。
自分でも滑るからと注意していた通り、そろりゝと一歩ずつ踏み締める様に歩くその姿は、冗談抜きに今の今、お化け屋敷から逃げ出して来た怪物のそれだった。周囲に集まった大人達が言葉を無くす中、当然あたし達も言葉を発する事が出来ずにいた。だって、刺青をしている人が入浴してはいけないと言うル―ルすら知らないあたしと一樹は、それ程までに躰が辛くて大変なのに、あたし達を連れて来てくれたじいちゃんに感謝し、感動していたから…。そんな満身創痍のじいちゃんを少しでも早く家に帰してやろうと考えたのか、一樹が、「俺、後スチ―ムサウナってやつだけ入ってみたいんだ。直ぐに戻って来るから」と早口に言って、じいちゃんと入れ替わりに湯船を出て行った。心地好い刺激に別れを告げるのは忍び無かったけど、あたしも一樹に続いて重い腰を上げた。
言った通りにと言うよりは、蒸し器の中に放り込まれた様な熱さと息苦しさに耐えられず、二・三分であたし達が泡風呂に戻って来ると、二十人程の大人達が泡風呂の前に集まって人集《だか》りが出来ていた。その男達の躰を押し退けるように間を抜けて、最初に目にした光景のインパクトをあたしは生涯忘れる事は無いだろう。
じいちゃんの躰に貼られていた湿布は呆気無く剥がれて、お湯を吸った無数の湿布達が、まるで豆腐みたいに浮かんで湯槽を埋めている。此処彼処《そこかしこ》から立ち上る泡達は如何にも沸騰する鍋の湯玉に見えて、出るに出られず赤黒く変色したじいちゃんの顔だけが、湯豆腐の鍋に投げ込まれた生首の如く、ひときわ異彩を放っていた。集まっている大人達が口々に何事か騒ぎ立てる中、そこから時間にして一・二分が経過した頃、騒ぎに気付いて駆け付けた従業員数人に引っ立てられて、じいちゃんが連れて行かれた。「ちょっと行ってくる」と言う言葉を残して。けれども項垂れたまま受付の奥へと連れて行かれたじいちゃんは、それから五分経っても十分経っても戻って来る事は無かった。風呂から上がって、休憩所で所在無くしていたあたし達の前にきむ爺が現れたのは更に一時間程が経ってからで、出入り禁止になって戻れなくなったじいちゃんから連絡を受けて、あたし達を迎えに来たのだと笑いながら説明してくれた。きむ爺が「覚えてるかい?」と聞いたのは正にこの出来事で、ほんの一月《ひとつき》二月《ふたつき》前の事の様にはっきりと思い出す事が出来て、あたし自身もびっくりした。
──「勘弁して下さいよ―」とだんごの声。
カウンタ―では、一樹が語った湯豆腐生首怪談を聞き終えて、力也の吹き出したビ―ルがだんごの頭から顔面を派手に濡らしていた。
カラ・コロ・カラン──
本日二組目のご来店は、パッと見サラリ―マンと言った感じの、ス―ツ姿が板についたおじさん三人連れ。座敷に通してから、三人の内の一人、眼鏡のおじさんは前にも一度来て貰った事があるのに気付く。確か家事になった家の近所に住んでるって言ってたような…。小上がりに腰掛けて注文を聞いていると、目の端にトイレに向かうだんごが見えた。注文を後の二人に任せて、おじさん達の内の一人が席を立ってだんごの後に続く。用意したボトルセットと突き出しを並べている処へ、後に立ったおじさんの方がだんごよりも先に戻って来て、言い辛そうな表情であたしに耳打ちして来た。
「トイレに入ったら、裸でシャンプ―使って頭洗ってる客が居たんだけど…」
あ―、あんにゃろめ。裸になる前に少しは場所を考える頭は無いんだろうか。洗う頭はあっても…。そもゝ、そんな頭に洗う価値などあるんだろうか。…ったく。
「すいません。あの子ちょっと変わってる病気なんで…」
「ああ、そうなんだ。いやゝ、そういう事ならこっちこそなんかごめんね」
「いいえ。こちらこそ」
トイレで裸になって頭洗う病気って何だよって、自分で言ってて思ったけど、まあしょうがない。数分後、首にタオルを掛けてトイレから戻って来ただんごに「風呂上がりか」と、太一が突っ込んだ。
「湯冷めしないように良く拭いた方がいいぞ」と、自分でやった事を忘れたかのような力也の偉そうなセリフ。受けただんごが「はいはい」と生返事を返して、力也と自分のコップに二度《ふたたび》ビ―ルを満たした。二人がコップを合わせていい音が鳴った処で、座敷から「湯豆腐頂だい!」と声が掛かる。これにカウンタ―に並んだ四人が一斉に噎《む》せた。
「勘弁して下さいよ―」
だんごの今日二回目の泣きそうな声に、皆の笑い声が重なった。
じいちゃんとサウナ~
平成の世も残り僅《わず》かと相成った四月十三日、週末。
──カラ・コロ・カラン
雨も降っちゃいないのに髪の毛を湿らせた男共が、心太《ところてん》式に店の入り口から溢れ出て来る。一樹、太一、力也、だんご。縺《もつ》れる様に暖簾を潜《くぐ》った、"順番に"という言葉を知らない騒がしいカルテット。開け放たれた引き戸から入り込む夜気に押され、嗅ぐだけでリラックス効果満点の石鹸の香りが店の中に拡がって行く。
「お帰り。銭湯寄って来たんだ?」
七時五分前。今日の口開けは、なんだかんだ言ってこの店一番の常連客のこの四人。詳細な内訳を言えば、一人が身内で三人が幼馴染み。
「みんな一緒で仲良くコンクリ打ちだったんだけどよ、終わり間際にパンクして、だんごが頭から生コン被っちまってな」一樹の言葉尻にみんなが笑い声を被せた。何故だろう?生コン被った張本人のだんごが一番愉しそうなのは?やっぱり莫迦《ばか》だからなんだろうか。可哀想に。
「ビ―ルくれよ」太一に言われて、一人に一つずつビ―ル壜《ビン》とコップを渡す。おんぼろ時計が鳴らす七時の鐘の音《ね》を合図にして、各々が勝手に飲《や》り始める。そんな四人をカウンタ―の中から煙管《キセル》片手に眺めていたきむ爺が、何を思い付いたのか嬉しそうに口を開いた。
「風呂って言やあ、前に一樹とはなみ二人してじいちゃんに銭湯に連れて行って貰った事があったろう、覚えてるかい?」
「ぁん?…あ―あったなあ…。あの時は確か…」と、そのエピソードを一樹がみんなに披露し始めたのを横目に、あたしはあたしで十年前の記憶の引き出しを探り始める。え―と……あっ、「あ―、帰る時きむ爺が迎えに来た時でしょ。そう言えば、そんな事もあったねえ…」
十年前のその出来事は、自分でも驚く程鮮やかな色彩を保って、今猶《なお》、あたしの中に在った。あたしときむ爺の会話が耳に届いた一樹が、話の途中でビ―ルを吹き出す。そう、あれは──
あたしが小学校の一年生、一樹が三年生になって間も無くという頃だった。学校で、ス―パ―銭湯に連れて行って貰ったと言う友達の自慢話を散々聞かされ帰って来た一樹が、じいちゃんを掴まえて、俺も連れて行ってくれとせがんだのがこの絵巻物のプロロ―グとなる。今でも変わって無いとは思うんだけど、当時ス―パ―銭湯と呼ばれるお風呂とサウナ、宴会場等《など》が一緒になった施設は、何処も決まって"刺青お断り!"が共通ル―ルだったのだ。これに困ったのがじいちゃんで、普段からあたし達の頼み事には首を横に振らないじいちゃんが、この時許《ばかり》は何時もの気っ風の良さはすっかり影を潜め、「あああ」だの「ううう」だの、形を成さない言葉を並べてはお茶を濁し捲っていた。「どかっ」と濡縁《ぬれえん》に胡座《あぐら》を掻くと、渋い顔を作って煙草を吹かす。なかゝ名案が浮かばないのか、灰皿に吸い殻を重ねては、収まりのつかない一樹を宥《なだ》めすかす。そんな風にして三十分も過ぎた頃だったと思う、晴れやかに顔色を変えたじいちゃんが勢い良く立ち上がったのは。
「よし!行こうじゃねえか」言うが早いか、不貞寝《ふてね》していた一樹が跳ね起き、雀躍り《こおどり》しながら支度を始める。あたしは"す~ぱ~せんとう"がどんな処なのか未だ良く分かっていなくて、剣道の練習から戻らない双葉はどうすんのかなァなんて、ぼんやりと考えていたっけ。それでもじいちゃんと一樹が支度を済ませて、さあ!いざ行かんと言う段になると、お出掛けする嬉しさに姉の事はすっぱりと頭から追いやって、にこゝ二人の後を付いて行く薄情なあたし。豪奢な構えの入口を抜けてあたし達は受け付けへと向かう。受け取った浴衣に着替えている時、じいちゃんが躰を隠すようにしてゴソゴソやっていたのも気にはなっていたんだけど、既《すで》に頭の中で"ス―パ―戦闘"と変換されたワ―ドの持つワクワク感にやられていて、双葉の事と同様、じいちゃんにも構っている余裕は無かったんだ。だって"ス―パ―戦闘"だよ、上がるでしょ。
実際には怪人に襲われる事も、派手な爆破に遭うことも無かったけど、ゲ―ムセンタ―、和洋中揃った食事と宴会場そしてカラオケ、休憩所には数え切れない量の漫画本。この世の楽園を見たあたしと一樹は、ゲ―ムセンタ―で遊び倒して、宴会場では食い倒れて、初体験の"ス―パ―戦闘"で思う存分倒され捲ったのだった。三倍速で時間は流れ、日もとっぷりと暮れた頃、小さな躰には不似合いな大きなソファ―で漫画本片手に休憩をしていると、銭湯本来の目的を思い出した一樹が、ここに来てやっと「風呂に入る」と言い出した。その時のあたしが、子供ながらに何時もと違う雰囲気をじいちゃんに感じたのは、今思うと錯覚ではなかったのかも知れない。
死地へと向かう兵士の如く厳しい顔付きのじいちゃんがゆっくりと席を立つ。
無言のまま後に続くあたしと一樹。"男"と書かれた暖簾を跳ね上げると、乱暴に浴衣を脱ぎ散らかして、一目散に浴場に入って行く一樹。「走ると滑って転ぶぞ」と言うじいちゃんの声にも一樹の足は止まらない。あたしも続いて浴場へと向かうと、幾つも並ぶ様々なタイプの浴槽の一つに一樹の姿を認めて、同じ湯船に躰を沈めた。ジャグジー風呂、ジェットバス、呼び名は色々有るんだろうけど、足下から細かな無数の泡が立ち上《のぼ》るそのお風呂は、子供だったあたしの肌にも心地いい刺激を与えてくれて、今までに体験した事の無い気持ち良さであたしを包んだ。躰中を被《おお》う数千、数万の泡が生み出す至福のひとときにうっとりしていると、浴場のガラス戸が引かれて、入って来るじいちゃんの姿が見えた。「!?」先《さっき》服を脱いでいた筈のじいちゃんが、何処に用意していたのか、全身を白装束に包んでいた。その格好のまま風呂場をゆっくりと進むじいちゃんの姿に、周りの大人達が何事かと動きを止める中、あたしと一樹も湯煙の中に目を細める。近付くにつれて、段々とその全容を現すじいちゃんの衣装。それは着物でも洋服でも無く、躰中に貼り付けられた大小様々、無数の白い湿布だった。尋常ではない数の湿布を隙間無く貼り付けたじいちゃんが、出来損ないの木乃伊《ミイラ》男みたいにゆっくりゝと歩いて来る。
自分でも滑るからと注意していた通り、そろりゝと一歩ずつ踏み締める様に歩くその姿は、冗談抜きに今の今、お化け屋敷から逃げ出して来た怪物のそれだった。周囲に集まった大人達が言葉を無くす中、当然あたし達も言葉を発する事が出来ずにいた。だって、刺青をしている人が入浴してはいけないと言うル―ルすら知らないあたしと一樹は、それ程までに躰が辛くて大変なのに、あたし達を連れて来てくれたじいちゃんに感謝し、感動していたから…。そんな満身創痍のじいちゃんを少しでも早く家に帰してやろうと考えたのか、一樹が、「俺、後スチ―ムサウナってやつだけ入ってみたいんだ。直ぐに戻って来るから」と早口に言って、じいちゃんと入れ替わりに湯船を出て行った。心地好い刺激に別れを告げるのは忍び無かったけど、あたしも一樹に続いて重い腰を上げた。
言った通りにと言うよりは、蒸し器の中に放り込まれた様な熱さと息苦しさに耐えられず、二・三分であたし達が泡風呂に戻って来ると、二十人程の大人達が泡風呂の前に集まって人集《だか》りが出来ていた。その男達の躰を押し退けるように間を抜けて、最初に目にした光景のインパクトをあたしは生涯忘れる事は無いだろう。
じいちゃんの躰に貼られていた湿布は呆気無く剥がれて、お湯を吸った無数の湿布達が、まるで豆腐みたいに浮かんで湯槽を埋めている。此処彼処《そこかしこ》から立ち上る泡達は如何にも沸騰する鍋の湯玉に見えて、出るに出られず赤黒く変色したじいちゃんの顔だけが、湯豆腐の鍋に投げ込まれた生首の如く、ひときわ異彩を放っていた。集まっている大人達が口々に何事か騒ぎ立てる中、そこから時間にして一・二分が経過した頃、騒ぎに気付いて駆け付けた従業員数人に引っ立てられて、じいちゃんが連れて行かれた。「ちょっと行ってくる」と言う言葉を残して。けれども項垂れたまま受付の奥へと連れて行かれたじいちゃんは、それから五分経っても十分経っても戻って来る事は無かった。風呂から上がって、休憩所で所在無くしていたあたし達の前にきむ爺が現れたのは更に一時間程が経ってからで、出入り禁止になって戻れなくなったじいちゃんから連絡を受けて、あたし達を迎えに来たのだと笑いながら説明してくれた。きむ爺が「覚えてるかい?」と聞いたのは正にこの出来事で、ほんの一月《ひとつき》二月《ふたつき》前の事の様にはっきりと思い出す事が出来て、あたし自身もびっくりした。
──「勘弁して下さいよ―」とだんごの声。
カウンタ―では、一樹が語った湯豆腐生首怪談を聞き終えて、力也の吹き出したビ―ルがだんごの頭から顔面を派手に濡らしていた。
カラ・コロ・カラン──
本日二組目のご来店は、パッと見サラリ―マンと言った感じの、ス―ツ姿が板についたおじさん三人連れ。座敷に通してから、三人の内の一人、眼鏡のおじさんは前にも一度来て貰った事があるのに気付く。確か家事になった家の近所に住んでるって言ってたような…。小上がりに腰掛けて注文を聞いていると、目の端にトイレに向かうだんごが見えた。注文を後の二人に任せて、おじさん達の内の一人が席を立ってだんごの後に続く。用意したボトルセットと突き出しを並べている処へ、後に立ったおじさんの方がだんごよりも先に戻って来て、言い辛そうな表情であたしに耳打ちして来た。
「トイレに入ったら、裸でシャンプ―使って頭洗ってる客が居たんだけど…」
あ―、あんにゃろめ。裸になる前に少しは場所を考える頭は無いんだろうか。洗う頭はあっても…。そもゝ、そんな頭に洗う価値などあるんだろうか。…ったく。
「すいません。あの子ちょっと変わってる病気なんで…」
「ああ、そうなんだ。いやゝ、そういう事ならこっちこそなんかごめんね」
「いいえ。こちらこそ」
トイレで裸になって頭洗う病気って何だよって、自分で言ってて思ったけど、まあしょうがない。数分後、首にタオルを掛けてトイレから戻って来ただんごに「風呂上がりか」と、太一が突っ込んだ。
「湯冷めしないように良く拭いた方がいいぞ」と、自分でやった事を忘れたかのような力也の偉そうなセリフ。受けただんごが「はいはい」と生返事を返して、力也と自分のコップに二度《ふたたび》ビ―ルを満たした。二人がコップを合わせていい音が鳴った処で、座敷から「湯豆腐頂だい!」と声が掛かる。これにカウンタ―に並んだ四人が一斉に噎《む》せた。
「勘弁して下さいよ―」
だんごの今日二回目の泣きそうな声に、皆の笑い声が重なった。